『人を運ぶ店』
2026/07/30
店の灯りは、今日も誰かを待っている
滋賀県守山市。
琵琶湖から吹く風が、街の建物の間をゆっくりと通り抜けていく。
朝の国道8号線では、草津市や栗東市へ向かう通勤車が列をつくり、湖岸道路には大津市方面へ走る車が途切れることなく流れていた。
長浜市から南へ向かう人。
東近江市の工場へ通う人。
甲賀市や湖南市へ仕事に向かう人。
滋賀県で暮らす人にとって、車は単なる移動手段ではない。
生活を守る道具であり、働くための足であり、家族との時間をつなぐ場所でもある。
その守山市の一角に、一軒の中古車販売店があった。
カーマッチ滋賀守山店。
朝、展示場の照明がつく。
事務所のブラインドが上がる。
前日の雨粒が残った車のボディを、スタッフが一台ずつ丁寧に拭いていく。
軽自動車。
コンパクトカー。
ミニバン。
SUV。
商用車。
それぞれ違う場所からこの店へやって来た中古車たちは、まだ見ぬ次の持ち主を静かに待っている。
店は話さない。
けれど、毎日多くの声を聞いていた。
「仕事のために車が必要なんです」
「子どもの送り迎えができなくて困っています」
「以前、ローンの審査が難しかったので不安です」
「頭金をすぐに用意できないのですが、相談できますか」
「できれば希望の車を中古車オークションで探してほしいです」
どの相談も、車の話から始まる。
しかし、その奥には必ず、人の暮らしがあった。
カーマッチ滋賀守山店が向き合っているのは、車そのものではない。
車を必要としている、その人の毎日だった。
だから、この店が最初に尋ねる言葉は決まっていた。
「どの車が欲しいですか」
ではない。
「車があったら、何をしたいですか」
その質問から、この店の商談は始まる。
その日の午前十一時。
一本の電話が鳴った。
「はい、カーマッチ滋賀守山店です」
電話の向こうから聞こえてきたのは、ためらいがちな女性の声だった。
「あの……ホームページを見て電話したんですが」
「ありがとうございます。どのようなご相談でしょうか」
数秒の沈黙があった。
女性は何かを言おうとして、やめた。
そして、もう一度息を吸ってから話し始めた。
「車が必要なんです。でも、ローンが心配で……」
スタッフは声の調子を変えなかった。
驚きも、詮索も、決めつけもない。
「承知しました。まずは現在のご状況をお聞きしながら、一緒に考えていきましょう」
「相談だけでも大丈夫ですか」
「もちろんです。すぐに車を決める必要はありません」
電話の向こうで、女性が少しだけ息を吐いた。
緊張がほどけたような音だった。
「それなら……今日、伺ってもいいですか」
「はい。お待ちしております」
電話を切ったあと、スタッフは来店予定表に時間を書き込んだ。
午後二時。
名前は、高木沙織。
住所は大津市。
詳しい事情は、まだ分からない。
それでもカーマッチ滋賀守山店は、知っていた。
「ローンが不安です」と口にするまでに、何度も迷った人がいることを。
検索画面を開いては閉じた人がいることを。
中古車販売店の前まで来ても、中に入れず帰った人がいることを。
誰かに過去を説明することが怖くて、相談そのものを諦めた人がいることを。
だからこそ、この店は待つ。
急かさない。
否定しない。
まずは、扉を開けてくれたことを大切にする。
午後二時を少し過ぎた頃、一台の路線バスが近くの停留所に止まった。
降りてきたのは、三十代後半ほどの女性と、高校生くらいの少女だった。
母親らしい女性は、スマートフォンの地図を何度も確認していた。
少女は少し離れたところを歩いている。
二人の間には、会話がなかった。
やがて、カーマッチ滋賀守山店の看板が見えてきた。
女性は足を止めた。
「ここみたい」
少女は看板を見上げ、小さくうなずいた。
「先に入って」
「一緒に来てくれるって言ったでしょ」
「別に車の話、分からんし」
「分からなくてもいいから」
女性の声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
少女はため息をつきながら、店の扉へ向かった。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
明るい声が二人を迎えた。
女性は深く頭を下げた。
「高木です。二時に予約した」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
二人は商談席に案内された。
冷たい飲み物が置かれる。
スタッフはすぐにローンや車種の話を始めなかった。
「今日は大津市からお越しいただいたんですね」
「はい。電車とバスで来ました」
「お時間がかかったと思います。ありがとうございます」
その言葉に、沙織は少し困ったように笑った。
「慣れているので」
少女は窓の外に並ぶ車を見ていた。
スタッフが尋ねる。
「娘さんですか」
「はい。高校二年生です」
「そうなんですね。今日は一緒に来てくださったんですね」
少女は視線を向けずに答えた。
「頼まれたので」
沙織は小さく謝った。
「すみません。最近、ちょっと難しい年頃で」
スタッフは笑った。
「大丈夫ですよ。私も高校生の頃は、親と出かけるだけで少し恥ずかしかったです」
その一言で、少女が初めてスタッフを見た。
商談席にあった緊張が、ほんの少しだけやわらいだ。
「では、車が必要になった理由からお聞きしてもよろしいですか」
沙織は両手を膝の上で握った。
「娘の学校のことです」
少女がわずかに顔を上げた。
沙織は続ける。
「今は大津市に住んでいます。でも娘が来年から、東近江市にある専門的なコースへ通いたいと言っていて」
「高校の授業とは別に、週末に通う必要があるんです」
「電車だと乗り換えが多くて、朝も早いし、帰りも遅くなるんです」
スタッフはうなずいた。
「送迎のために車が必要ということですね」
「それだけじゃありません」
沙織は少し目を伏せた。
「私も仕事を変えようと思っています」
今の仕事は、大津市内の飲食店。
勤務時間は不規則で、収入も安定しない。
知人から、栗東市にある物流会社の仕事を紹介されていた。
給与は今より上がる。
社会保険もある。
ただし、勤務開始は早朝。
公共交通機関では間に合わない。
車があれば転職できる。
娘の送迎もできる。
生活を立て直せるかもしれない。
その一方で、沙織には不安があった。
数年前、離婚した元夫との生活の中で、支払いが遅れた時期があった。
自分名義の契約もあった。
詳しい状況は覚えていない。
ただ一度、別の中古車販売店でローンを申し込んだところ、希望どおりにはならなかった。
それ以来、自分にはもう車を持てないのだと思っていた。
「今回も無理かもしれません」
沙織は言った。
「それでも娘が、どうしてもそのコースへ行きたいって言うから」
隣に座る少女の表情が変わった。
「別に、無理なら行かんでいいし」
「そういう話じゃないでしょ」
「お母さんが無理するくらいならいいって言ってる」
「無理じゃない。必要なことだから」
「またお金のことでケンカするの嫌なんやけど」
少女の声が震えた。
店内が静かになった。
沙織は何も言えなくなった。
スタッフは口を挟まず、二人の間にある言葉を待った。
しばらくして、沙織が小さく言った。
「ごめん」
娘は窓の外を向いた。
「私、あの時みたいになりたくないだけ」
「あの時?」
スタッフは聞き返さなかった。
それでも沙織は、ぽつりぽつりと話し始めた。
離婚前、家ではお金の話になるたびに夫婦げんかになった。
支払いが遅れ、電話が鳴り、娘は自分の部屋で耳をふさいでいた。
ある夜、家族で使っていた車が突然なくなった。
元夫が売却していた。
理由は聞かされなかった。
翌朝から、娘は長い距離を自転車で学校へ通った。
雨の日も、風の日も。
沙織はその後、娘に何度も謝った。
しかし娘は、もう昔のことだからと言っていた。
本当は忘れていなかった。
車の話をするたび、あの頃の記憶が戻ってきていたのだ。
スタッフは静かに言った。
「お話しいただき、ありがとうございます」
「車を買うことよりも、安心して生活を続けられることのほうが大切です」
「ですから、無理な計画はおすすめしません」
沙織は顔を上げた。
「でも、車がないと転職もできないんです」
「はい。だからこそ、順番に整理しましょう」
スタッフは白い紙を一枚取り出した。
そこに三つの項目を書いた。
現在の収入。
転職後の収入。
毎月無理なく支払える金額。
「当店では、最初から一つの方法だけに決めるのではなく、まず一般的なオートローンを含めて確認します」
「その結果やお客様のご状況に応じて、信用回復ローンや自社ローンなど、利用できる可能性のある方法をご案内します」
「ただし、どの方法でも必ず利用できるとは限りません」
「大切なのは、審査に通すことだけではなく、納車後も無理なく生活を続けられることです」
沙織は黙って説明を聞いていた。
「頭金をすぐに用意できない場合でも、相談はできますか」
「はい。頭金なしで検討できる場合もあります。ただし、車両や契約内容、お客様の状況によって異なりますので、実際の条件を確認しながらご案内します」
「自社ローンって、普通のローンと違うんですか」
「仕組みや契約方法が異なります。当店が独自の基準で確認し、ご提案する方法です」
「過去だけで判断するのではなく、現在の収入や生活状況、これからの返済計画などを確認します」
少女が初めて質問した。
「お母さんが昔、支払い遅れたことも全部言わないとダメですか」
スタッフは少女の方を見た。
「分かる範囲で大丈夫です」
「分からないことを無理に答える必要はありません」
「そして、過去のことを責めるために聞くわけではありません」
「これから無理なく生活していける方法を考えるために必要なことだけ確認します」
少女はしばらくスタッフを見ていた。
やがて、小さくうなずいた。
話を整理すると、沙織の希望は明確になった。
大きな車は必要ない。
燃費が良いこと。
大津市から栗東市への通勤に使えること。
週末には東近江市まで娘を送迎できること。
荷物がある程度積めること。
毎月の支払いを抑えられること。
できれば白かシルバー。
スタッフは展示場にある数台を案内した。
軽自動車。
コンパクトカー。
低燃費のハイブリッド車。
それぞれの維持費、税金、燃費、修理費の違いを説明する。
沙織は価格だけを見ていた。
少女は後部座席の広さを確かめていた。
「ここ、教科書とか荷物置けそう」
その言葉に、沙織が笑った。
「もう乗る気になってるやん」
「別に。確認しただけ」
そう言いながら、少女の表情も少し明るくなっていた。
展示場に希望に合う車がなければ、全国の中古車オークションから探すこともできる。
スタッフはタブレットを開き、いくつかの車両を表示した。
滋賀県内だけでなく、全国の会場に出品される中古車。
年式。
走行距離。
修復歴。
評価点。
内外装の状態。
「中古車オークションでは、在庫にない車も探せます」
「ただ、写真だけで決めるのではなく、車両の状態を確認し、気になる点をお伝えしたうえでご提案します」
「安い車には、安い理由がある場合もあります」
「だから当店では、購入価格だけでなく、納車後の整備や維持費も含めて考えます」
沙織は画面を見ながら言った。
「安ければいいと思っていました」
「もちろん価格は大切です」
「でも、すぐに修理が必要になれば、結果として負担が増えてしまいます」
「毎日使う車だからこそ、総合的に考えた方が安心です」
少女が画面の一台を指さした。
「これ、いいやん」
白いコンパクトカーだった。
年式は新しくない。
走行距離も少なくはない。
しかし、必要な装備がそろい、状態も比較的良かった。
沙織は価格を見てから、娘の顔を見る。
「ちょっと考えよう」
以前の娘なら、すぐに不機嫌になっていただろう。
その日は違った。
「うん。無理して買うのは違うし」
その一言に、沙織は驚いた。
スタッフは二人のやり取りを見ながら、何も言わずにほほ笑んだ。
商談は二時間近く続いた。
その日、契約はしなかった。
車も決めなかった。
審査の申し込みに必要な内容を確認し、沙織は書類を持ち帰ることにした。
帰り際、スタッフが言った。
「焦らず、ご家族で考えてください」
「分からないことがあれば、いつでもご連絡ください」
沙織は深く頭を下げた。
「今日は来て良かったです」
「まだ何も決まっていませんよ」
「はい。でも、決めなくてもいいって言ってもらえたので」
その言葉には、少しだけ笑いが混じっていた。
少女は自動ドアの前で振り返った。
「また来てもいいですか」
「もちろんです」
「次は、あの白い車に似たやつ、もう少し見たいです」
「探しておきますね」
少女は照れたように店を出た。
帰りのバスの中。
沙織と娘は並んで座っていた。
窓の外には、守山市の街並みが流れていく。
しばらく無言だったが、娘が先に口を開いた。
「お母さん」
「なに?」
「私、あの学校行きたい」
「うん」
「でも、そのためにまた家が大変になるのは嫌」
「分かってる」
「だから、ちゃんと一緒に考えよう」
沙織は娘の顔を見た。
「一緒に?」
「車も、お金も。私もアルバイトできるようになったら少しは出すし」
「それはいいよ。あなたのお金はあなたのために使って」
「でも、家族やろ」
その言葉に、沙織は返事ができなかった。
窓の外へ目を向ける。
夕方の守山市を、何台もの車が走っている。
どの車にも、誰かの生活が乗っている。
仕事帰りの人。
買い物へ向かう家族。
子どもを迎えに行く親。
病院へ向かう高齢者。
車は、人を目的地まで運ぶ。
けれど、その日、沙織は別のことを考えていた。
もしかすると、車が運ぶのは人だけではない。
言えなかった気持ち。
壊れかけた家族の会話。
諦めかけた未来。
そういう目には見えないものまで、車は次の場所へ運んでくれるのかもしれない。
その夜。
カーマッチ滋賀守山店の展示場から、一台ずつ照明が消えていった。
スタッフは最後に事務所の灯りを落とす前、来店予定表を確認した。
高木沙織。
大津市。
通勤と娘の送迎に使用予定。
希望車種、コンパクトカー。
頭金について相談。
ローンに不安あり。
スタッフはその横に、小さく一文を書き加えた。
「家族で安心して乗れることを最優先」
車を販売するだけなら、そこまで書く必要はない。
しかしカーマッチ滋賀守山店は、車だけを見ている店ではなかった。
その先にいる人を見る店だった。
守山市、栗東市、草津市、大津市、長浜市、東近江市、甲賀市、湖南市。
滋賀県のさまざまな地域から、明日も誰かが相談に訪れる。
中古車を探す人。
全国の中古車オークションで希望の一台を見つけたい人。
自社ローンについて知りたい人。
信用回復ローンを通して、これからの信用を築きたい人。
頭金の準備が難しく、購入方法を相談したい人。
過去の事情から、ローン審査に不安を抱えている人。
この店は、「必ず大丈夫」と軽々しく約束しない。
誰にでも同じ答えを出すこともしない。
ただ、一人ひとりの状況を聞き、できる方法を一緒に探す。
無理なときは、無理だと正直に伝える。
それでも、そこで話を終わらせるのではなく、次にできることを考える。
車を売るより先に、人が前を向ける道を探す。
それが、カーマッチ滋賀守山店だった。
事務所の灯りが消える。
展示場は静けさに包まれた。
けれど、店の中には今日交わされた言葉が残っている。
「相談だけでも大丈夫ですか」
「もちろんです」
「また来てもいいですか」
「いつでもお待ちしています」
店の灯りは消えても、その言葉は消えない。
明日になれば、また新しい誰かが扉を開ける。
そして、この店から新しい道が始まる。
カーマッチ滋賀守山店は、車を並べて待っているのではない。
人がもう一度、未来へ向かう瞬間を待っている。
だから、この店の仕事は車を売ることだけではない。
車に乗る人の不安を受け止め、
家族の想いを乗せ、
それぞれの人生を次の場所へ送り出すこと。
ここは、ただの中古車販売店ではない。
滋賀県守山市にある、小さな――
人を運ぶ店だった。
一枚の名刺が、仕事をつないだ日
滋賀県長浜市。
琵琶湖の北側に広がるこの街では、朝の空気が守山市より少し冷たく感じられる。
冬が近づくと、伊吹山から吹き下ろす風が道路沿いの木々を揺らし、古い町並みには淡い霧が流れ込む。
その朝も、空には厚い雲が広がっていた。
まだ日が昇りきらない午前六時半。
一台の白い軽バンが、住宅街の細い道をゆっくり走っていた。
運転していたのは、山本隆司。
四十二歳。
長浜市を中心に、住宅の内装工事や修繕を請け負う職人だった。
個人で仕事を始めて七年。
大きな会社ではない。
従業員もいない。
問い合わせの電話を受けるのも、材料を仕入れるのも、現場へ向かうのも、見積書を作るのも、すべて一人だった。
そのため、隆司にとって軽バンは単なる移動手段ではなかった。
工具箱。
脚立。
電動ドリル。
養生シート。
接着剤。
交換用の部品。
現場で必要になるものを積み込み、長浜市から米原市、東近江市、時には守山市や大津市まで走る。
軽バンがなければ、仕事はできない。
仕事ができなければ、収入も止まる。
だから毎朝、隆司は車に乗り込む前に必ず運転席へ手を添えた。
「今日も頼むぞ」
誰に聞かせるでもない、小さな挨拶だった。
しかし、その日の軽バンは、いつものようには応えてくれなかった。
キーを回す。
短い機械音が鳴る。
エンジンはかからない。
もう一度回す。
今度は、弱々しい音がしただけだった。
「嘘やろ……」
隆司は眉間にしわを寄せた。
バッテリーかもしれない。
そう思い、近所の知人へ連絡した。
ケーブルをつなぎ、しばらく待つ。
再びキーを回す。
一瞬だけエンジンが動いた。
しかし、低い異音を残してすぐに止まった。
知人はボンネットをのぞき込みながら言った。
「これ、バッテリーだけじゃないかもしれんぞ」
隆司の胸の奥に、嫌な感覚が広がった。
その日は朝から、東近江市の住宅で床の張り替え作業が入っていた。
午後には長浜市内で、雨漏り後の壁紙補修。
翌日は甲賀市の店舗で、棚の取り付け作業。
すべて数週間前から決まっている仕事だった。
「とりあえず今日は軽トラ貸すわ」
知人の助けで、その日の仕事だけは何とか乗り切った。
しかし、修理工場から夕方に届いた連絡は、隆司の期待を打ち砕いた。
「エンジン周辺にも問題があります。年式と走行距離を考えると、修理しても別の箇所が故障する可能性があります」
「修理費はいくらくらいですか」
伝えられた金額を聞き、隆司は言葉を失った。
安くない。
しかも、修理が終わるまでに日数がかかる。
代車も長期間は借りられない。
その場しのぎで直したとしても、またいつ止まるか分からない。
現場へ向かう途中で動かなくなれば、取引先にも迷惑をかける。
「買い替えも考えた方がいいです」
修理工場の担当者は、申し訳なさそうに言った。
隆司にも、それは分かっていた。
分かっていたからこそ、怖かった。
隆司は数年前、一度事業に失敗していた。
知人と二人で小さなリフォーム会社を立ち上げたものの、取引先からの入金が遅れ、材料費や外注費の支払いが重なった。
知人は途中で会社を離れた。
残った借入れと未払い金を、隆司が引き受けた。
会社は閉じた。
自宅も手放した。
妻とは別居し、やがて離婚した。
それでも隆司は、職人の仕事を辞めなかった。
工具を抱え、知り合いの現場を手伝いながら、少しずつ信用を取り戻した。
今では紹介だけで仕事が続くようになっていた。
しかし金融機関から見れば、過去は簡単には消えない。
以前、仕事用車両を買い替えようとしてローンへ申し込んだことがある。
結果は希望どおりにはならなかった。
そのとき隆司は、今の軽バンを修理しながら乗り続けることを選んだ。
「まだ走る」
「もう少しだけ使える」
そう自分に言い聞かせながら、車検を通し、部品を交換し、何度も修理してきた。
しかし、とうとう限界が来た。
隆司に残された時間は少なかった。
現場の予定は詰まっている。
車がなければ、道具を運べない。
大きな仕事を断れば、次の依頼が来なくなる可能性もある。
「また、全部なくなるんか」
事務所代わりに使っている小さな部屋で、隆司は机に置かれた予定表を見つめた。
翌朝。
隆司は知人の軽トラックを借り、長浜市内の現場へ向かった。
荷台には防水シートをかけたが、雨が降れば工具が濡れる。
脚立や資材を固定するにも手間がかかる。
現場へ到着すると、依頼主の男性が心配そうに声をかけた。
「いつもの車、どうしたんですか」
「故障しまして」
「大丈夫なんですか」
「何とかします」
そう答えたものの、隆司自身に何とかできる見通しはなかった。
作業はいつもどおり丁寧に行った。
古い床材を剥がし、下地を確認し、新しい板を一枚ずつ張っていく。
手は動いている。
けれど頭の中では、車のことばかり考えていた。
修理するか。
買い替えるか。
知人から古い車を譲ってもらえないか。
仕事を一部断るか。
どの方法を選んでも、不安は消えなかった。
作業が終わる頃、依頼主が一枚の名刺を差し出した。
「そういえば、知り合いが守山市の車屋さんで相談したって言っていました」
隆司は名刺を受け取った。
白い紙の中央に、店名が印刷されていた。
カーマッチ滋賀守山店。
「守山市ですか」
「少し遠いですけどね。普通の中古車販売店とは少し違って、ローンに不安がある人の相談も聞いてくれるらしいです」
隆司は名刺を見ながら苦笑した。
「自分は多分、難しいと思います」
「相談だけでもしてみたらどうですか」
「車がないと仕事にならないんでしょう」
依頼主は、張り替えられた床を見渡した。
「山本さんみたいに丁寧な仕事をする人が、車一台のせいで仕事をやめるのはもったいないですよ」
隆司は返事をしなかった。
名刺を作業着の胸ポケットへ入れた。
その日の帰り道。
赤信号で停車したとき、隆司は胸ポケットから名刺を取り出した。
守山市。
長浜市からは決して近くない。
しかし、仕事では何度も通っている。
行けない距離ではなかった。
スマートフォンで店名を検索する。
画面には店舗情報が表示された。
滋賀県守山市の中古車販売店。
自社ローンや信用回復ローンの相談。
全国の中古車オークションから希望車両を探せること。
ローンに不安のある人も、まずは相談できること。
口コミも読んだ。
「話を最後まで聞いてもらえた」
「無理な車を勧められなかった」
「仕事に必要な車を探してもらった」
「納車までの流れを丁寧に説明してもらえた」
隆司はスマートフォンを閉じた。
過度に期待するつもりはなかった。
期待すれば、駄目だったときに余計につらくなる。
それでも、他に方法は思いつかなかった。
翌日の昼休み。
隆司は名刺に書かれた番号へ電話した。
「カーマッチ滋賀守山店です」
「あの、長浜市の山本と申します」
「はい。お電話ありがとうございます」
「仕事で使っている軽バンが故障してしまって」
「それはお困りですね」
隆司は少し黙った。
「それで、買い替えを考えているんですが……ローンが心配です」
電話口のスタッフは急かさなかった。
「承知しました。まずは現在のお仕事や、必要なお車についてお聞きしてもよろしいでしょうか」
隆司は仕事内容を説明した。
長浜市を中心に、滋賀県内の住宅や店舗の修繕工事を行っていること。
工具や資材を積むため、軽バンか小型の商用車が必要なこと。
車がなければ、来週からの仕事を断らなければならないこと。
過去に事業を閉じた経験があり、以前ローンが難しかったこと。
話しているうちに、自分の声が少し早くなっていることに気づいた。
「急いでいるのは分かります。ただ、仕事を失う方が怖くて」
スタッフは静かに答えた。
「大丈夫です。急ぎながらも、無理な契約にならないよう一緒に考えましょう」
「必ず用意できるとは言えませんが、利用できる可能性のある方法を順番に確認します」
「今日、仕事のあとに伺ってもいいですか」
「はい。お待ちしております」
午後七時前。
隆司は借りた軽トラックで、カーマッチ滋賀守山店へ到着した。
外はすでに暗くなっていた。
展示場の照明が並んだ車を照らしている。
事務所の灯りもついていた。
長浜市からの移動で少し遅くなったが、スタッフは店の前で迎えてくれた。
「遠いところありがとうございます」
「すみません、こんな時間に」
「お仕事のあとですから、お気になさらないでください」
隆司は商談席へ座った。
作業着には木くずや白い粉が残っていた。
「汚れたままで申し訳ないです」
「仕事を終えて、そのまま来てくださったんですね」
その言葉に、隆司は少しだけ肩の力を抜いた。
スタッフは最初に、故障した軽バンの状態を確認した。
年式。
走行距離。
修理見積額。
車検の残り期間。
現在の車を修理して乗り続ける選択肢も含め、買い替えと比較した。
「売ることしか考えていないんですか」
隆司が思わず尋ねると、スタッフは首を横に振った。
「修理した方が負担が少ないなら、それも一つの方法です」
「ただ、山本様の場合は毎日仕事で長距離を走り、工具も多く積まれるので、今後の故障リスクも考える必要があります」
「現場へ行けないことが一番困ります」
「そうですよね」
スタッフは紙に条件を書き出した。
軽バン。
荷室が広い。
できれば四輪駆動。
走行距離は少なめ。
修復歴なしを希望。
予算はできる限り抑える。
納車を急ぎたい。
毎月の支払いは仕事を圧迫しない範囲。
「頭金は用意できますか」
隆司は正直に答えた。
「ほとんど用意できません。今月は材料費の支払いもあります」
「承知しました。頭金なしで検討できる可能性も含めて確認します」
「ただし、ご希望どおりになるかは審査や車両条件によります」
隆司はうなずいた。
「それで大丈夫です」
以前の彼なら、「何とか通してください」と頼んでいたかもしれない。
しかしスタッフの説明を聞くうちに、大切なのは通るかどうかだけではないと分かり始めていた。
毎月支払えること。
仕事を続けられること。
修理や税金も含めて維持できること。
納車後の生活が成り立たなければ、車を手に入れても意味がない。
次に、現在の仕事について確認された。
月ごとの売上。
材料費。
固定費。
手元に残る金額。
継続して依頼をもらっている取引先。
今後決まっている仕事。
隆司は鞄から、折り曲げられた手帳を取り出した。
そこには現場予定がびっしり書き込まれていた。
長浜市の住宅補修。
東近江市の店舗工事。
大津市のマンション内装。
甲賀市の事務所修繕。
湖南市のアパート改修。
守山市の空き家リフォーム。
スタッフは一つずつ確認した。
「お仕事は継続して入っているんですね」
「ありがたいことに、紹介で何とか続いています」
「請求書や入金が確認できる資料はありますか」
「持ってきています」
隆司は通帳の写しや確定申告書、請求書の控えを取り出した。
スタッフは丁寧に目を通した。
過去の失敗だけを見れば、不安材料はある。
しかし現在の隆司は、真面目に仕事を続け、取引先から繰り返し依頼を受けている。
そこには数字だけでは分からない信用が積み重なっていた。
「一度、一般的なオートローンを含めて確認します」
「その結果に応じて、信用回復ローンや自社ローンの可能性も検討します」
「信用回復ローンというのは、どういうものですか」
「契約内容や商品によって異なりますが、毎月の支払いをきちんと続けることで、これからの信用を築くことを目指す選択肢です」
「自社ローンは?」
「当店独自の基準で、現在の収入や支払い可能額などを確認してご提案します」
「いずれも、必ず利用できるわけではありません」
「ただ、過去だけで決めつけず、現在とこれからを見ながら検討します」
隆司は、手帳の予定を見つめた。
過去だけで決めつけない。
その言葉は、彼がずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。
「車はどうやって探すんですか」
「展示車や提携在庫だけでなく、全国の中古車オークションからも探せます」
スタッフはパソコン画面を開いた。
条件に合う軽バンを検索する。
白。
シルバー。
黒。
年式も走行距離もさまざま。
価格の安い車もあれば、装備が充実した車もある。
「この一番安い車では駄目ですか」
隆司が指したのは、走行距離がかなり多い車両だった。
スタッフは車両情報を拡大した。
「価格は魅力的ですが、山本様は仕事で毎日使われます」
「今の車と同じように故障が重なると、仕事へ影響が出る可能性があります」
「こちらは少し価格が上がりますが、走行距離が少なく、車両評価も比較的良いです」
「四輪駆動なので、長浜市の冬にも使いやすいと思います」
隆司は画面を見比べた。
これまでの買い物では、目の前の安さを最優先にすることが多かった。
余裕がなかったからだ。
しかし仕事道具である車については、安いだけで選ぶことが、かえって大きな損失になる可能性がある。
「安い車を買って、また止まったら意味がないですね」
「そうですね。仕事で使う車は、稼働できることが何より大切です」
全国の中古車オークションでは、希望に近い車を探せる一方、実車を直接確認できない場合もある。
だからこそ、出品票や評価、修復歴、傷やへこみ、機関状態を慎重に確認する必要がある。
スタッフは、オークションの利点だけでなく、注意点も説明した。
「急いでいるからといって、状態の悪い車を落札することはしません」
「山本様の仕事を支える車ですから、納得できる一台を探します」
隆司は深くうなずいた。
その日の商談が終わったのは午後九時近くだった。
外は冷え込んでいた。
隆司は店を出る前に、何度も頭を下げた。
「遅い時間まで、本当にすみません」
「大丈夫です」
「結果がどうなるかは分かりませんが、できる方法を確認してご連絡します」
「お願いします」
車へ戻ろうとした隆司を、スタッフが呼び止めた。
「山本様」
「はい」
「来週の仕事は、すぐに断らず少し待ってください」
「まだ何も決まっていませんよ」
「はい。でも、できることを全部確認してからでも遅くありません」
隆司は一瞬、言葉を失った。
「分かりました」
それだけ答え、軽トラックへ乗り込んだ。
守山市から長浜市までの帰り道。
外は真っ暗だった。
それでも、来るときより道が明るく見えた。
数日後。
カーマッチ滋賀守山店では、隆司の条件に合う車両探しが続いていた。
一台目は、価格は安かったが下回りの状態に不安があった。
長浜市の冬は、雪や融雪剤の影響を受ける。
長く使うことを考え、見送った。
二台目は、走行距離は少なかったが、荷室に大きな損傷があった。
仕事道具を積むには使いにくい。
これも見送った。
三台目は状態が良かったが、予算を大きく超えていた。
無理をすれば契約できるかもしれない。
しかし、月々の支払いが仕事や生活を圧迫する。
それでは意味がない。
スタッフは妥協せず探し続けた。
滋賀県内の在庫。
近隣府県の業者在庫。
全国の中古車オークション。
そして四台目。
シルバーの軽バン。
四輪駆動。
走行距離は比較的少ない。
修復歴なし。
荷室には使用感があるものの、仕事用として問題のない状態。
外装には小さな傷がある。
しかし機関状態と車両評価は良好だった。
何より、予算とのバランスが取れている。
スタッフは隆司へ電話した。
「条件に近い車が見つかりました」
「本当ですか」
「ただし、外装に傷があります。新しい車のような見た目ではありません」
隆司は少し笑った。
「仕事で使えば、どうせ傷はつきます」
「走ってくれることの方が大事です」
「そうおっしゃると思いました」
「車両資料をお送りしますので、確認してください」
スマートフォンに届いた写真を、隆司は現場の休憩時間に何度も見た。
華やかな車ではない。
年式も新しくない。
しかし荷室は広い。
四輪駆動。
工具も資材も積める。
長浜市の雪道でも使いやすい。
「これなら仕事を続けられる」
写真を見ながら、初めて具体的にそう思えた。
審査や確認には時間がかかった。
必要書類の追加提出もあった。
隆司は現場の合間に役所へ行き、書類を用意した。
取引先へ事情を説明し、請求書の控えもそろえた。
結果を待つ間、何度も不安になった。
電話が鳴るたび、胸が跳ねた。
「難しかったです」と言われる場面を想像した。
しかしスタッフから届く連絡は、いつも短く、分かりやすかった。
「書類を受け取りました」
「現在、確認を進めています」
「追加でこちらの資料が必要です」
「車両についても状態を再確認しています」
結果だけではなく、今どこまで進んでいるのかを伝えてもらえる。
それだけで、隆司の不安は少し和らいだ。
そして、最初の電話から一週間後。
昼休みに一本の連絡が入った。
「山本様、ご提案できる方法が整いました」
隆司は耳を疑った。
「車を買えるということですか」
「最終的な契約内容をご確認いただく必要はありますが、現在の条件で進められる見込みです」
隆司はすぐに返事ができなかった。
現場の外では、冷たい風が吹いていた。
職人仲間が遠くで材料を運んでいる。
「山本様?」
「すみません」
隆司は目元を押さえた。
「ありがとうございます」
「まだご契約前です。月々の支払いと全体の費用を確認して、無理がないか一緒に考えましょう」
「はい」
「無理なら無理で、正直に言ってください」
「もちろんです」
電話を切ると、隆司は胸ポケットから、折れ曲がった一枚の名刺を取り出した。
あの日、依頼主から受け取った名刺。
捨てずに持っていてよかった。
再び守山市を訪れた隆司は、契約内容の説明を受けた。
車両価格。
登録費用。
整備費用。
月々の支払い。
支払い期間。
保証内容。
万が一、支払いが難しくなりそうな場合の相談方法。
一つずつ確認した。
「もっと高い車を勧められると思っていました」
隆司が言うと、スタッフは笑った。
「必要以上に高い車は、山本様の仕事を助けるどころか負担になります」
「今回の車は見た目の傷はありますが、仕事用として必要な条件を満たしています」
「十分です」
隆司は契約書を見つめた。
そこに署名することは、車を買うだけではない。
もう一度、責任を持って支払いを続ける約束でもある。
過去に失った信用は、一度の契約ですぐに戻るわけではない。
毎月の支払い。
仕事の継続。
約束を守ること。
その積み重ねでしか、信用は築けない。
「今度は、途中で投げ出しません」
誰に言うでもなく、隆司はつぶやいた。
スタッフは静かに答えた。
「困ったときは、投げ出す前に相談してください」
その言葉に、隆司は力強くうなずいた。
納車までの間、軽バンは整備工場へ運ばれた。
エンジンオイル。
バッテリー。
タイヤ。
ブレーキ。
ライト。
エアコン。
ワイパー。
仕事で使う車だからこそ、日常点検だけでなく、長距離走行を想定した確認が行われた。
荷室も清掃された。
大きな傷は消えない。
けれど汚れが落ち、道具を積める状態に整えられていく。
隆司はその間も、借りた軽トラックで仕事を続けた。
荷物を積むたび、雨を気にした。
現場を移動するたび、知人に申し訳なく思った。
それでも、納車日が決まっているだけで気持ちは違った。
一時的な不便には、終わりが見えていた。
納車の日。
長浜市には朝から細かな雪が降っていた。
守山市へ近づくにつれ、空は少し明るくなった。
カーマッチ滋賀守山店の展示場には、シルバーの軽バンが停まっていた。
派手な飾りはない。
新車のような輝きもない。
それでも隆司には、どの展示車より頼もしく見えた。
「お待たせしました」
スタッフから鍵を受け取る。
運転席へ座る。
シートの位置を合わせる。
ミラーを確認する。
キーを回す。
エンジンが一度でかかった。
低く安定した音が車内に広がる。
隆司はハンドルを握ったまま、しばらく動かなかった。
「大丈夫ですか」
「はい」
声が少し震えていた。
「前の車も、最初は中古でした」
「七年、仕事を支えてくれました」
「最後まで走らせてやりたかったんですけど」
「十分役目を果たしてくれたと思います」
隆司はうなずいた。
「今度はこの車と、もう一度やります」
最初に向かったのは長浜市の倉庫だった。
これまで使っていた工具を、新しい軽バンへ積み替える。
電動工具。
脚立。
腰袋。
水平器。
材料箱。
一つずつ積み込むたび、荷室が仕事場らしくなっていく。
最後に、古い軽バンのダッシュボードに入れていた名刺を取り出した。
カーマッチ滋賀守山店。
折れ目がつき、端が少し汚れている。
隆司はそれを、新しい車のサンバイザーへ挟んだ。
お守りにするつもりはなかった。
ただ、忘れたくなかった。
車を失いかけたとき、仕事まで失うと思っていたこと。
相談することを諦めなくてよかったこと。
過去だけではなく、今を見てもらえたこと。
これからの信用は、自分でつくっていかなければならないこと。
翌朝。
隆司はいつものように運転席へ乗り込んだ。
外は薄暗い。
道路の端には雪が残っている。
助手席には見積書。
荷室には工具と資材。
今日の現場は、守山市の古い一軒家。
空き家を改修し、若い家族が住めるようにする仕事だった。
エンジンをかける前、隆司はハンドルへ手を置いた。
「今日から頼むぞ」
キーを回す。
軽バンは静かに動き出した。
長浜市から守山市へ。
雪の残る道を南へ走る。
その途中で、隆司の電話が鳴った。
路肩へ車を止め、通話に出る。
以前仕事をした大津市の不動産会社からだった。
「山本さん、来月から湖南市でアパート改修があるんですが、お願いできますか」
隆司はフロントガラスの向こうを見た。
道路はまっすぐ続いている。
「はい。お願いします」
「車、大丈夫なんですか」
「新しく仕事用の軽バンを用意できました」
「それなら安心です。詳細を送ります」
電話を切る。
一台の車が用意できたことで、次の仕事がつながった。
その仕事が、次の収入につながる。
収入が、毎月の支払いにつながる。
支払いを続けることが、これからの信用につながっていく。
車は人を運ぶ。
しかし、その日、シルバーの軽バンが運んでいたのは隆司一人ではなかった。
工具。
仕事。
約束。
信用。
そして、もう一度立て直そうとする一人の職人の未来。
すべてを乗せ、車は守山市へ向かって走った。
数週間後。
カーマッチ滋賀守山店へ、一通の封筒が届いた。
中には短い手紙と、一枚の新しい名刺が入っていた。
名刺には、こう書かれていた。
山本内装サービス
住宅・店舗修繕
内装工事・小規模リフォーム
滋賀県長浜市
裏面には手書きの文章があった。
「車を用意していただいたおかげで、予定していた仕事を断らずに済みました。新しい依頼も増えています。今度は、この名刺が誰かの役に立てばうれしいです。」
スタッフは、その名刺を店内の引き出しへ大切にしまった。
一枚の名刺から始まった相談が、新しい一枚の名刺へつながった。
人から人へ。
仕事から仕事へ。
信用から信用へ。
カーマッチ滋賀守山店が届けたのは、一台の軽バンだった。
しかし軽バンが運んだものは、車両価格では数えられない。
長浜市で働き続ける職人の誇り。
取引先との約束。
これから出会うお客様の暮らし。
そして、再び積み上げていく信用だった。
滋賀県守山市にあるカーマッチ滋賀守山店には、守山市だけでなく、栗東市、草津市、大津市、長浜市、東近江市、甲賀市、湖南市など、滋賀県各地から相談が寄せられる。
中古車販売店を探している人。
仕事用の車が必要な人。
全国の中古車オークションから希望車両を探したい人。
自社ローンや信用回復ローンについて相談したい人。
頭金の準備が難しい人。
過去の事情からローン審査に不安を抱えている人。
一人ひとりの事情は違う。
だから、同じ車を勧めることも、同じ答えを出すこともできない。
必要なのは、その人がどこへ行きたいのかを知ること。
仕事を続けたいのか。
家族を守りたいのか。
生活を立て直したいのか。
新しい夢を追いかけたいのか。
目的地が分かって初めて、その人に必要な一台を一緒に考えられる。
カーマッチ滋賀守山店は、ただ中古車を販売する店ではない。
人の仕事をつなぎ、
人の約束を守り、
人の未来を次の場所へ運ぶ店である。
あの日、隆司が受け取った一枚の名刺は、車を紹介する紙ではなかった。
立ち止まった人生に、もう一本の道があることを知らせる、小さな地図だった。
そして今、その地図は新しい軽バンの中で、次の現場へ向かっている。
人を運ぶ店から出発した一台が、今日も誰かの暮らしを支えるために走っていた。
小さな命を迎える、大きな決断
滋賀県草津市。
朝の通勤時間になると、住宅街から国道へ向かう車が少しずつ増えていく。
栗東市の工場へ向かう人。
大津市の会社へ通う人。
守山市や湖南市方面へ営業に出る人。
駅の周辺には新しいマンションや商業施設が並び、少し離れると昔からの住宅街や田畑が残っている。
便利な街だった。
電車もある。
買い物にも困らない。
病院も多い。
それでも、家族が増えると、車の必要性は急に大きくなる。
大きな荷物。
通院。
保育園への送り迎え。
雨の日の買い物。
子どもが熱を出した夜。
これまでは何とかできていたことが、赤ちゃん一人が加わるだけで難しくなる。
そのことを、西村健太と西村結衣は、少しずつ実感し始めていた。
二人は草津市内の賃貸マンションで暮らしていた。
健太は栗東市にある食品工場で働く三十一歳。
結衣は草津市内の美容室に勤務する二十九歳。
結婚して三年。
大きなぜいたくはできなかったが、二人の生活は穏やかだった。
休日には電車で京都へ出かける。
近所のスーパーで買い物をする。
天気の良い日は自転車で琵琶湖沿いまで走る。
車がなくても、それほど困ってはいなかった。
健太は独身時代に乗っていた古い軽自動車を持っていたが、二年前の車検を機に手放していた。
維持費がかからなくなり、家計は少し楽になった。
「草津なら電車もバスもあるし、車なしでもいけるよな」
二人はそう話していた。
しかし、結衣の妊娠が分かった日から、少しずつ考えが変わっていった。
妊娠六か月を迎えたある日。
結衣は健太と一緒に、草津市内のベビー用品店へ出かけた。
ベビーカー。
チャイルドシート。
抱っこひも。
ベビーベッド。
紙おむつ。
小さな服。
売り場には、これまで見たこともないほど多くの商品が並んでいた。
「赤ちゃんって、こんなに荷物いるんやな」
健太が驚いたように言う。
結衣はベビーカーを押しながら笑った。
「まだこれで全部じゃないよ」
「これ、電車で持って帰れる?」
「今日は見るだけって言ったやん」
二人は笑った。
だが、笑いながらも同じことを考えていた。
赤ちゃんが生まれた後、本当に車なしで生活できるのだろうか。
結衣の実家は甲賀市にある。
電車とバスを乗り継げば行けるが、赤ちゃんを連れての移動は簡単ではない。
健太の両親は長浜市に住んでいる。
こちらも公共交通機関だけでは時間がかかる。
産婦人科は草津市内にあるものの、駅から少し離れていた。
これまでは健太が休みを取って付き添うか、結衣がバスで通っていた。
だが、お腹が大きくなるにつれ、乗り換えや待ち時間が負担になってきた。
「やっぱり車、いるかな」
帰り道、結衣が言った。
健太はすぐには答えなかった。
「いるとは思う」
「でも、買えるかな」
二人の間に現実が落ちてきた。
結婚式の費用。
引っ越し。
家具や家電。
出産準備。
二人には大きな貯金がなかった。
健太の収入は安定している。
結衣も産休に入るまでは働く予定だった。
ただ、出産後はしばらく収入が減る。
保育園に入れるかも分からない。
復職できる時期もはっきりしていない。
車を買えば、車両代だけでなく保険、税金、車検、駐車場、ガソリン代がかかる。
必要だからといって、無理をすれば家計が苦しくなる。
「軽自動車なら安いかな」
健太が言う。
結衣は少し考えた。
「軽でもいいけど、ベビーカー積めるかな」
「チャイルドシート載せて、荷物も積んで、長浜まで行くこと考えたら狭いかも」
「じゃあミニバン?」
「ミニバンは高いやろ」
二人はスマートフォンで中古車を検索した。
草津市の中古車販売店。
守山市の中古車販売店。
栗東市の中古車販売店。
滋賀県のミニバン。
中古車オークション。
ローン。
頭金なし。
画面には多くの車両が表示された。
価格だけ見れば、買えそうな車もある。
しかし、走行距離や修復歴、整備内容を見ても、何が良いのか分からない。
「安いのは安い理由があるんかな」
「それすら分からん」
調べれば調べるほど、不安が増えていった。
数日後。
健太は工場の休憩室で、同僚の男性に相談した。
「子ども生まれるし、車買おうと思ってるんですけど」
同僚は弁当を食べながら言った。
「ミニバン?」
「そこまで大きくなくてもいいんですけど、荷物は積みたいです」
「中古車なら守山市の店で探してもらったら?」
「守山市?」
「カーマッチ滋賀守山店。うちの知り合いが仕事用の軽バン探してもらったらしい」
その話を聞いた健太は、作業着のポケットからスマートフォンを取り出した。
店舗名を検索する。
滋賀県守山市の中古車販売店。
全国の中古車オークションから車を探せること。
オートローン、信用回復ローン、自社ローンなど、状況に応じた相談ができること。
頭金をすぐに用意できない場合も、相談できる場合があること。
「ローンに不安がある人向けの店なんですか」
健太が尋ねると、同僚は首を傾げた。
「それだけじゃないと思うで」
「無理な車を勧めずに、生活に合う車を考えてくれたって言ってた」
「生活に合う車……」
その言葉が、健太には少し新鮮だった。
車を選ぶ基準は、価格や年式、走行距離だと思っていた。
生活から考えるという発想はなかった。
その週の日曜日。
健太と結衣は、草津市から守山市へ向かった。
二人に車はないため、電車とバスを使った。
結衣のお腹はだいぶ目立つようになっていた。
バスを降りてからも、健太は何度も歩く速度を合わせた。
「大丈夫?」
「大丈夫。そんなにゆっくりじゃなくても歩けるよ」
「転んだら困るし」
「心配しすぎ」
そう言いながら、結衣は少しうれしそうだった。
やがてカーマッチ滋賀守山店の看板が見えてきた。
展示場にはさまざまな中古車が並んでいる。
軽自動車。
コンパクトカー。
ミニバン。
SUV。
商用車。
二人は店の前で立ち止まった。
「とりあえず話だけ聞こう」
健太が言う。
結衣もうなずいた。
「今日決めるのはやめようね」
「分かってる」
「絶対、勢いで決めそうやもん」
「そんなことないって」
二人の会話を聞くように、自動ドアが静かに開いた。
「いらっしゃいませ」
スタッフが二人を迎えた。
結衣が妊娠していることに気づくと、背もたれのある席を案内し、膝掛けを用意した。
「ありがとうございます」
「体調は大丈夫ですか」
「はい。今日は元気です」
飲み物が運ばれたあと、スタッフが尋ねた。
「今日は、どのようなお車をお探しですか」
健太は答えようとして、少し迷った。
「子どもが生まれるので、車が必要かなと思って」
「まだ車種も決まっていません」
「そうなんですね。ご出産はいつ頃ですか」
「三か月後です」
「おめでとうございます」
二人は少し照れたように頭を下げた。
スタッフは続けた。
「まず、車が必要になる場面を一緒に整理してみましょう」
「普段はどのように使う予定ですか」
健太と結衣は順番に話した。
草津市内での買い物。
産婦人科への通院。
赤ちゃんが生まれた後の定期健診。
甲賀市にある結衣の実家への移動。
長浜市にある健太の実家への帰省。
将来的な保育園の送り迎え。
ベビーカーや買い物の荷物を載せること。
高速道路を使う可能性。
雪の多い長浜市へ冬に行くこと。
スタッフは一つずつ書き留めていった。
「毎日長距離を走るわけではありませんが、家族で遠出することもあるんですね」
「はい」
「駐車場の広さは確認されていますか」
健太と結衣は顔を見合わせた。
「してないです」
「マンションの駐車場なので、大きすぎる車は難しいかもしれません」
「では、駐車場の幅や高さも確認した方が良いですね」
スタッフは車両価格だけでなく、駐車環境、維持費、乗り降りのしやすさ、チャイルドシートの取り付け位置まで確認していった。
二人は、思っていた以上に考えることが多いと気づいた。
「ミニバンがいいと思っていたんですけど、高いですよね」
健太が尋ねた。
スタッフはすぐに肯定も否定もしなかった。
「ミニバンにもさまざまな大きさがあります」
「大人数向けの大きな車もあれば、コンパクトでスライドドアが付いた車もあります」
「今のお二人なら、大型のミニバンが必ず必要とは限りません」
「そうなんですか」
「大きい車は荷物が多く積めますが、税金や燃料代、タイヤ交換などの維持費も上がる傾向があります」
「ご家族が三人で、草津市内での利用が中心なら、コンパクトミニバンも選択肢になります」
結衣が身を乗り出した。
「スライドドアは欲しいです」
「そうですよね。赤ちゃんを抱いたままドアを開ける場面では便利です」
「駐車場で隣の車にぶつける心配も少なくなります」
「あと、ベビーカーが積めて、チャイルドシートを載せても狭くない方がいいです」
「では、実際に見てみましょう」
展示場には、ちょうどコンパクトミニバンが一台並んでいた。
年式は新しくない。
走行距離も少なくはない。
しかしスライドドアがあり、室内は比較的広かった。
スタッフは後部座席のドアを開けた。
「こちらがチャイルドシートを載せる位置になります」
結衣はお腹を支えながら、乗り降りを試した。
「思ったより楽」
健太は荷室を開けた。
「ベビーカー入りますか」
「種類にもよりますが、一般的なサイズなら積めると思います」
「ただし、荷物が多い場合は三列目を収納する使い方になるかもしれません」
二人は車内を何度も確認した。
結衣は後部座席から前を見た。
「赤ちゃん、ここに乗るんやな」
その一言で、車内にまだいない家族の姿が浮かんだ。
チャイルドシート。
小さな毛布。
泣き声。
哺乳瓶。
助手席から振り返る結衣。
運転席で慌てる健太。
まだ何も始まっていないのに、未来の景色だけが先に現れた。
健太は笑った。
「似合うと思う?」
「車に?」
「お父さんに」
結衣は少し考えるふりをした。
「まだ分からん」
「そこは似合うって言うところやろ」
スタッフも笑った。
商談席へ戻ると、費用の話になった。
車両価格。
登録費用。
整備費用。
自動車税。
任意保険。
駐車場代。
燃料代。
車検。
タイヤ交換。
健太はメモを取りながら、少しずつ表情を曇らせた。
「思っていたよりかかりますね」
「はい。購入時の金額だけでなく、所有している間の費用も考える必要があります」
結衣が静かに言った。
「出産後、私の収入が減るんです」
「復職できる時期もまだ分からなくて」
「それなら、今の二人分の収入を基準にするのではなく、出産後を想定して考えた方が安心です」
スタッフは、家計の見通しを整理した。
健太の手取り。
結衣の産休、育休期間の収入。
家賃。
生活費。
出産後に増える支出。
毎月無理なく支払える金額。
「ローンは長く組めば、月々の支払いは下がります」
「ただし、総支払額や車の年式とのバランスも大切です」
「安い車でも修理が増えれば負担になりますし、新しい車でも支払いが重すぎれば生活を圧迫します」
「お二人の場合は、出産後も余裕を残せることが大切だと思います」
健太はうなずいた。
「頭金は、ほとんど出せません」
「出産費用を残しておきたいので」
「それは大切です」
「頭金なしで検討できる可能性も含めて確認できますが、契約内容や審査結果によって条件は異なります」
「頭金を出すことで月々の支払いを抑えられる場合もありますが、手元のお金をすべて使ってしまうのはおすすめしません」
結衣がほっとしたように言った。
「頭金を出せばいいってものでもないんですね」
「はい。赤ちゃんが生まれた後は、急な出費もあります」
「車を買った直後に生活費が足りなくなるようでは、安心して乗れません」
二人は顔を見合わせた。
車を買うために貯金を使い切ることも考えていた。
だが、それでは何のために車を買うのか分からなくなる。
家族を守るための車が、家族を苦しめてはいけない。
「ローンについても心配があります」
健太が言った。
「以前、携帯電話の支払いが遅れたことがあって」
「それが影響するか分からないですけど」
スタッフは状況を確認した。
いつ頃のことか。
現在は解消しているか。
他の借入れはあるか。
勤続年数。
収入。
結衣の状況。
「まずは一般的なオートローンを含めて確認できます」
「その結果やご状況に応じて、信用回復ローン、自社ローンなどの方法も検討します」
「ただし、必ず利用できるとお約束するものではありません」
「過去の事情だけでなく、現在の収入や生活状況、今後の支払い計画を見ながらご提案します」
健太は少し緊張した表情で尋ねた。
「審査に通りやすい車ってあるんですか」
スタッフは首を横に振った。
「車だけで決まるわけではありません」
「価格を抑えることが条件面で良い方向につながる場合はありますが、大切なのは無理のない計画です」
「“絶対に大丈夫”とは言えません」
「でも、お二人に合う可能性のある方法を一緒に探すことはできます」
その説明に、健太はゆっくりとうなずいた。
派手な言葉はなかった。
簡単に期待を持たせることもなかった。
だからこそ、信用できるように感じた。
展示場の車だけで決める必要はなかった。
スタッフは全国の中古車オークションから、条件に合う車両を探せることを説明した。
コンパクトミニバン。
スライドドア。
修復歴なし。
チャイルドシートを設置しやすい。
ベビーカーを積める。
予算内。
維持費を抑えられる。
できれば白か淡い色。
ナビとバックカメラ付き。
健太は希望を言いながら苦笑した。
「言いすぎですかね」
「希望を出すことは大切です」
「すべてをかなえるのが難しい場合は、優先順位を決めていきましょう」
結衣は迷わず言った。
「安全性とスライドドアです」
健太は続けた。
「支払いが無理にならないこと」
「色は最後でいいです」
「では、その条件で探してみます」
二人はその日、契約をしなかった。
必要書類や今後の流れを確認し、駐車場の寸法を測ってから再度相談することになった。
店を出ると、夕方の冷たい風が吹いていた。
健太は結衣の歩く速度に合わせながら尋ねた。
「どうやった?」
「来て良かった」
「車、欲しくなった?」
「それより、ちゃんと考えないとって思った」
「俺も」
「赤ちゃんのためって言いながら、見栄で大きな車選びそうになってた」
健太は苦笑した。
「ちょっとは思ってた」
「やっぱり」
「でも、今は三人が安心して乗れる車でいい」
結衣はお腹に手を当てた。
「三人か」
二人は少し黙った。
お腹の中の小さな命が、もう家族の選択を変え始めていた。
数日後。
健太から駐車場の寸法が送られてきた。
横幅。
全長。
高さ制限。
スタッフはその条件をもとに、候補車両を絞った。
展示場にあった車は、少し幅が大きかった。
乗れないわけではないが、隣の車との間隔が狭くなる。
赤ちゃんを抱いて乗り降りすることを考えると、使いづらい可能性がある。
そこで全国の中古車オークションを調べた。
一台目。
条件は良いが、予算を超えていた。
二台目。
価格は安いが、修復歴があり、スライドドアの状態に懸念があった。
三台目。
走行距離は少ないが、車内の汚れが大きい。
四台目。
薄いシルバーのコンパクトミニバン。
年式は少し古い。
走行距離も極端に少ないわけではない。
しかし車両評価は安定している。
修復歴なし。
両側スライドドア。
ナビ。
バックカメラ。
荷室も十分。
価格も予算に近かった。
スタッフは出品票を細かく確認した。
外装には小さな傷がある。
内装にも使用感がある。
完璧な車ではない。
だが、家族で使うために必要な条件はそろっている。
写真と資料が、健太と結衣へ送られた。
その夜、二人はスマートフォンの画面を食卓に置き、何度も見比べた。
「色、地味かな」
健太が言う。
「赤ちゃん乗せる車に派手さはいらんやろ」
「でも、白がいいって言ってたやん」
「シルバーも汚れ目立たなそう」
「確かに」
「傷もあるって」
「中古車やし、そこは仕方ないんじゃない?」
結衣は写真を拡大した。
後部座席。
スライドドア。
荷室。
運転席。
「この車なら、チャイルドシート載せて、ベビーカーも積めそう」
「長浜にも行けるかな」
「行けるやろ」
「雪の日は無理せん方がいいけど」
「お父さん、慎重やな」
「お父さんって呼ばれると変な感じする」
二人は笑った。
以前は、車を買うことが負担にしか見えなかった。
今は、家族の未来を具体的に想像できるようになっていた。
審査や契約条件の確認は慎重に進められた。
健太の勤務状況。
現在の収入。
結衣の産休予定。
毎月の生活費。
他の支払い。
出産後の収支。
スタッフは何度も確認した。
最初に提示された案では、月々の支払いが少し高かった。
健太は無理をすれば払えると言った。
しかしスタッフは、そのまま進めなかった。
「今は払えても、出産後に負担になる可能性があります」
「車両の条件を少し見直すか、支払い方法を再検討しましょう」
「せっかく見つけた車なのに」
「車を手に入れることが目的ではありません」
「ご家族が安心して使い続けられることが目的です」
その言葉に、健太は黙った。
結衣が静かに言った。
「もう少し安い車でもいいよ」
「でも、安全性は落としたくない」
「では、そこを優先して探し直しましょう」
一度候補になった車は見送られた。
二人は少し残念だった。
だが、無理な支払いを避けられたことに、どこか安心もしていた。
さらに数日後。
別の一台が見つかった。
淡いブルーのコンパクトミニバン。
両側スライドドアではなく、片側のみ。
ナビは少し古い。
外装には年式相応の傷がある。
しかし、修復歴なし。
エンジンや機関状態に大きな問題は見られない。
室内は比較的きれい。
チャイルドシートの固定にも対応している。
荷室も十分。
そして、最初の候補より費用を抑えられる。
スタッフは良い点だけでなく、妥協が必要な点も説明した。
「スライドドアは片側だけです」
「バックカメラは付いていますが、ナビは古い型です」
「外装も新車のようにきれいではありません」
健太は結衣の顔を見た。
「どう思う?」
「私はこれでいいと思う」
「両側スライドじゃなくても、使う側を決めればいいし」
「色も優しい感じで好き」
「俺も」
「支払いは?」
スタッフが見積もりを示す。
出産後の生活費を考えても、余裕を残せる金額だった。
健太は何度も数字を確認した。
結衣も家計簿と見比べた。
「これなら、無理せず払えると思います」
「では、最終的な条件を確認したうえで進めましょう」
契約の日。
二人は再びカーマッチ滋賀守山店を訪れた。
必要書類。
登録。
整備。
保証。
納車までの流れ。
保険。
チャイルドシートを設置する際の注意点。
説明は細かく続いた。
「納車前に、チャイルドシートを持ってきてもいいですか」
結衣が尋ねた。
「もちろんです。取り付け位置も一緒に確認しましょう」
健太は書類へ署名する前に、一度ペンを置いた。
「本当にこの金額で大丈夫かな」
結衣は答えた。
「二人で考えたやん」
「無理してない」
「赤ちゃんのためだけじゃなくて、私たちの生活にも必要」
健太はうなずいた。
契約書に名前を書く。
それは車を買うための署名だった。
同時に、家族の暮らしに責任を持つという約束にも感じられた。
納車準備が始まった。
車は整備工場へ運ばれた。
エンジンオイル。
バッテリー。
ブレーキ。
タイヤ。
ライト。
ワイパー。
エアコン。
スライドドア。
チャイルドロック。
一つずつ点検された。
車内も丁寧に清掃された。
後部座席には、これから赤ちゃんが乗る。
小さな汚れやにおいも確認された。
スタッフは、家族が初めて乗る日のことを想像しながら準備を進めた。
車はまだ、誰も乗せていない。
それでも、すでに一つの家族の未来を運び始めていた。
納車予定日の一週間前。
結衣が突然、入院した。
健太から店へ連絡が入った。
「予定より早く生まれるかもしれません」
声には焦りがあった。
「母子の状態は大丈夫ですか」
「今のところ大丈夫です」
「ただ、しばらく入院になるみたいで」
「納車日は変更できますので、まずは奥様のことを優先してください」
「すみません」
「謝る必要はありません」
「お車はこちらで安全に保管します」
健太はその言葉に救われた。
契約。
納車。
保険。
仕事。
病院。
頭の中がいっぱいになっていた。
店から「納車を急いでください」と言われたら、どうすればいいか分からなかった。
しかし、カーマッチ滋賀守山店が優先したのは車ではなかった。
車に乗る家族だった。
数日後。
結衣は無事に女の子を出産した。
予定より少し早かったが、母子ともに元気だった。
健太は分娩室の外で、小さな泣き声を聞いた。
その瞬間、胸の奥にあった不安が、涙になって流れた。
病室で初めて娘を抱いたとき、あまりの小ささに手が震えた。
「軽い」
健太が言うと、結衣は笑った。
「でも命は重いよ」
二人は顔を見合わせた。
窓の外には、草津市の夜景が広がっていた。
道路を走る車のライトが、細い線のように流れている。
「この子、車に乗せるの怖いな」
「安全運転して」
「今まで以上にする」
「泣いても焦らないで」
「それは無理かも」
「無理って言わない」
二人は小さな声で笑った。
退院日が決まると、納車日も調整された。
健太は先に車を受け取り、チャイルドシートを取り付けることになった。
納車の日。
淡いブルーのコンパクトミニバンが、カーマッチ滋賀守山店の展示場で待っていた。
新車ではない。
小さな傷もある。
年式も新しくない。
しかし、きれいに整えられた車内には、新しい家族を迎える準備ができていた。
スタッフと一緒にチャイルドシートを固定する。
角度。
ベルト。
ぐらつき。
ドアの開け方。
チャイルドロック。
健太は何度も確認した。
「これで大丈夫ですか」
「はい。ただ、使う前には毎回固定状態を確認してください」
「分かりました」
鍵を受け取る。
健太は運転席へ座った。
エンジンをかける。
バックミラーを見る。
後部座席には、まだ空のチャイルドシートがある。
その空席が、これからの人生で一番大切な席になる。
退院の日。
健太は病院の正面玄関へ車を止めた。
結衣が看護師に付き添われながら出てくる。
腕の中には、小さな娘。
淡い色の帽子。
白いおくるみ。
健太は急いで車から降りた。
「ゆっくりでいいよ」
「分かってる」
「段差あるから」
「見えてる」
心配しすぎる健太に、結衣は笑った。
チャイルドシートへ娘を乗せる。
ベルトを締める。
小さな体がシートに収まった。
娘は一瞬顔をしかめたが、すぐに眠り始めた。
結衣は後部座席に座り、そっと顔をのぞき込んだ。
「この子、初めてのドライブやね」
健太はハンドルを握った。
「ゆっくり帰るわ」
車は静かに病院を出発した。
草津市の道を、淡いブルーのミニバンが走る。
いつもなら気にならない道路の段差が、その日は大きく感じられた。
健太は急発進を避け、車間距離を広く取り、いつも以上に慎重に運転した。
信号待ちになるたび、バックミラーを見る。
結衣と娘がいる。
たったそれだけで、車内の空気が変わっていた。
車は人を運ぶ。
その日、車が運んでいたのは三人だった。
けれど、本当に運ばれていたものは人数だけではない。
新しい命。
父親になった責任。
母親になった喜び。
まだ始まったばかりの家族の時間。
泣き声も、眠りも、不安も、笑顔も。
そのすべてを乗せ、車は家へ向かっていた。
数か月後。
西村家の生活は慌ただしくなっていた。
夜泣き。
授乳。
おむつ替え。
定期健診。
買い物。
健太の仕事。
結衣の睡眠不足。
大変なことは多かった。
それでも、車があることで助けられる場面は数えきれなかった。
雨の日の通院。
大量のおむつの買い出し。
甲賀市の実家への帰省。
長浜市の両親へ娘を見せに行く日。
琵琶湖沿いで娘が初めて外の風に触れた休日。
健太は車に乗るたび、あの日の商談を思い出した。
大きなミニバンを買わなくてよかった。
見栄で選ばなくてよかった。
月々の支払いに余裕を残してよかった。
片側だけのスライドドアも、使い方に慣れれば不便ではなかった。
古いナビも、スマートフォンを使えば問題なかった。
外装の小さな傷は、もう気にならなかった。
必要だったのは、完璧な車ではない。
家族に合う車だった。
ある春の日。
三人は一年点検のため、カーマッチ滋賀守山店を訪れた。
娘は後部座席のチャイルドシートで眠っていた。
スタッフが車内をのぞき込み、笑顔になる。
「大きくなりましたね」
「最近、やっとよく笑うようになりました」
結衣が答える。
健太は展示場を見渡した。
初めて来た日と同じように、さまざまな車が並んでいた。
商談席には、若い夫婦が座っている。
女性のお腹は少し大きく見えた。
健太は、まるで一年前の自分たちを見ているような気がした。
点検を待つ間、若い夫婦の会話が少し聞こえた。
「子どもが生まれるので、車が必要で」
「でも、どんな車を選べばいいか分からなくて」
スタッフが穏やかに答える。
「まずは、車があったらどんな生活をしたいか、お聞かせください」
健太と結衣は顔を見合わせた。
結衣が小さく笑う。
「私たちと同じやね」
「うん」
「声かける?」
「いきなり知らない人に話しかけたら驚くやろ」
「でも、言いたいな」
「何を?」
結衣は眠る娘を見ながら言った。
「高い車じゃなくても、ちゃんと家族の思い出は増えるって」
健太はうなずいた。
点検が終わり、三人は店を出た。
車へ乗る前、健太はカーマッチ滋賀守山店の看板を見上げた。
この店で買ったのは、中古のコンパクトミニバンだった。
しかし、この店から始まったものは、それだけではない。
家族で話し合う時間。
無理をしない決断。
未来の支出を考える責任。
生まれてくる子どもを迎える準備。
そして、三人で走り始める新しい生活。
カーマッチ滋賀守山店は、車を売ったのではない。
三人が安心して同じ方向へ進める道を、一緒に探した。
車は草津市へ向かって走り出した。
後部座席では娘が目を覚まし、小さな声を上げた。
結衣が振り返る。
「起きた?」
娘は意味のない声を出しながら、両手を動かした。
健太がバックミラー越しに笑う。
「次、どこ行こうか」
「まだしゃべれんよ」
「聞いてるかもしれんやん」
「じゃあ、琵琶湖」
結衣が答えた。
「もう少し大きくなったら、甲賀の公園も行こう」
「長浜にもまた行かないと」
「大津の水族館も」
「守山も」
行きたい場所が次々に増えていく。
それは車があるから生まれた会話だった。
だが、車だけでは生まれなかった。
無理なく持てる一台を選び、家族三人で暮らしを続けられる安心があったからこそ、未来の話ができた。
滋賀県守山市のカーマッチ滋賀守山店には、今日も家族の相談が寄せられる。
守山市。
栗東市。
草津市。
大津市。
長浜市。
東近江市。
甲賀市。
湖南市。
中古車販売店を探す人。
全国の中古車オークションから家族に合う一台を探したい人。
頭金の準備が難しく、購入方法を相談したい人。
オートローンや信用回復ローン、自社ローンについて知りたい人。
ローン審査に不安を抱えている人。
家族が増え、今の車では狭くなった人。
初めて車を持つ人。
事情はそれぞれ違う。
だから、カーマッチ滋賀守山店は車種から話を始めない。
まず、その車に誰を乗せるのかを聞く。
どこへ行きたいのかを聞く。
どんな暮らしを守りたいのかを聞く。
車は、広ければ良いわけではない。
新しければ良いわけでもない。
安ければ良いわけでもない。
その人の生活に合い、安心して使い続けられること。
それが、本当に必要な一台である。
西村家の淡いブルーのミニバンは、決して特別な車ではなかった。
街中で見かける、どこにでもある中古車だった。
けれど、その一台には、西村家にしかない時間が積み重なっていく。
初めての退院。
初めての通院。
初めての帰省。
初めての琵琶湖。
初めて家族三人で見た夕焼け。
これからも、初めての日は増えていく。
そのたびに車は、三人を次の場所へ運ぶ。
そして、三人が家族になっていく時間を、静かに見守り続ける。
人を運ぶ店から送り出された一台は、小さな命とともに、大きな未来を乗せて走り始めていた。
走れなかった営業マン
滋賀県栗東市。
物流倉庫や工場、事業所が集まるこの街では、朝になると多くの営業車や配送車が行き交う。
守山市へ向かう車。
草津市の取引先を回る車。
大津市の中心部へ商談に向かう車。
東近江市や湖南市、甲賀市まで商品を届ける車。
滋賀県で営業の仕事をする人にとって、車は単なる移動手段ではない。
時間を守るための道具。
商品を届けるための荷台。
取引先との約束をつなぐ足。
そして時には、誰にも見られずに気持ちを整える小さな部屋でもある。
藤井直樹にとっても、車は仕事の一部だった。
いや、少し前まではそうだった。
直樹は三十八歳。
栗東市にある業務用厨房機器会社で営業をしていた。
飲食店。
介護施設。
病院。
学校給食センター。
宿泊施設。
取引先は滋賀県全域に広がっている。
守山市の飲食店へ冷蔵庫を提案したあと、草津市のホテルで食器洗浄機の相談を受ける。
翌日は大津市の病院へ見積書を届け、午後から東近江市の介護施設で厨房設備の打ち合わせ。
時には長浜市や甲賀市まで走ることもある。
営業車があった頃、直樹は一日に何件もの取引先を訪問していた。
相手の表情を見て話す。
厨房の広さを測る。
古い機械の状態を確認する。
現場で困っていることを聞く。
商品を売るより先に、人の話を聞く。
それが直樹の営業だった。
成績は派手ではなかった。
月によって波もある。
しかし、一度取引を始めたお客様からは長く頼られていた。
「藤井さんに相談したら、無理なものは無理って言ってくれる」
「高い商品ばかり勧めない」
「故障したときに来てくれる」
そんな言葉をもらうたび、直樹はこの仕事を選んでよかったと思っていた。
だが、その日常は、一通の社内メールで大きく変わった。
会社では、営業車の運用方法を見直すことになった。
これまで一人一台に近い形で使えていた車両を減らし、複数人で共有する方針になった。
理由は経費削減。
燃料費。
保険料。
整備費用。
保有台数を減らせば、会社の負担は軽くなる。
説明自体は理解できた。
しかし、外回りの多い直樹にとっては深刻な問題だった。
共有車は早い者勝ちではない。
前日までに申請し、優先度によって割り振られる。
急な訪問。
故障対応。
現場確認。
そうした予定外の動きが多い営業には使いづらい。
「必要なら自家用車を業務利用しても構わない」
上司はそう言った。
車両手当とガソリン代は出る。
実際、何人かの営業担当者は自分の車を使い始めた。
しかし直樹には、自家用車がなかった。
半年前まで乗っていた車は、車検を前に故障が続き、手放していた。
新しい車を買おうとは思っていた。
だが、すぐには動けなかった。
理由は、過去にあった。
直樹は若い頃、順調に見える人生を送っていた。
大学を卒業し、営業職に就いた。
結婚。
住宅購入。
子どもの誕生。
新車も買った。
収入も安定していた。
周囲から見れば、何も問題のない家庭だった。
だが、三十二歳のとき、父親が倒れた。
実家は湖南市にあり、母親一人では介護が難しかった。
直樹は仕事を続けながら、休日や仕事帰りに実家へ通った。
介護費用。
住宅ローン。
子どもの教育費。
生活費。
出費は増えた。
その頃、会社の業績が悪化し、賞与も減った。
直樹は家族に心配をかけたくなかった。
「大丈夫」
そう言い続けた。
しかし本当は、大丈夫ではなかった。
支払いのためにカードを使った。
翌月払えず、別の方法で補った。
少しずつ返済が増えていった。
妻に相談できないまま、問題は大きくなった。
やがて、家に届いた通知で隠しきれなくなった。
夫婦の会話は減った。
介護の疲れ。
お金の不安。
仕事の焦り。
どれも解決できないまま積み重なった。
最終的に、二人は離婚した。
子どもは妻と暮らすことになった。
住宅も手放した。
直樹は栗東市の小さなアパートへ移り、生活を立て直し始めた。
借入れは整理した。
支払いも続けた。
仕事も辞めなかった。
それでも、車のローンへ申し込むことには強い不安があった。
以前、中古車販売店で一度申し込んだことがある。
結果は希望どおりではなかった。
店員の反応も冷たく感じた。
「難しいですね」
その一言で話は終わった。
直樹は、自分の過去を見透かされたような気がした。
それ以来、車を買う話から逃げていた。
共有車が使えない日は、電車とバスで取引先を回った。
駅から近い会社なら問題ない。
しかし工場や介護施設、郊外の飲食店は駅から遠い。
守山市の取引先へ行くために、栗東駅から電車に乗り、さらにバスを待つ。
大津市の山側にある施設へ向かう日は、最寄り駅から二十分以上歩いた。
東近江市の工場では、予定時刻に間に合わず、先方を待たせた。
雨の日、商品カタログや見積書を抱えて歩いた。
夏の日、汗だくのまま商談席に座った。
冬の日、バス停で冷たい風に耐えた。
以前なら一日五件回れていたところを、二件しか回れない日もあった。
仕事の効率だけではない。
気持ちまで変わっていった。
訪問を提案する前に、移動手段を考える。
「今から来られますか」と言われても、すぐには答えられない。
故障の相談を受けても、共有車がなければ行けない。
「今日中に現場を見てほしい」
その言葉に、「明日では駄目ですか」と聞き返すことが増えた。
直樹の営業は、少しずつ縮んでいった。
ある月の営業会議。
壁に成績表が映し出された。
直樹の数字は、部署内で下から二番目だった。
以前なら平均以上にいた。
大口案件が取れなくても、細かな依頼を積み重ねていた。
しかし訪問件数が減り、提案数も減っていた。
上司が尋ねる。
「藤井、最近どうした」
「動きが少ないぞ」
「共有車の予約が取れない日が多くて」
「それは皆同じだ」
「ほかの社員は自家用車を使っている」
その言葉に、直樹は何も返せなかった。
自分の事情を説明したくなかった。
過去の支払い。
離婚。
ローンへの不安。
会社の人間に知られたくなかった。
会議後、後輩の営業担当者が声をかけた。
「藤井さん、大丈夫ですか」
「大丈夫」
また、その言葉を使った。
何年も前、家族に言い続けたのと同じ言葉だった。
本当は大丈夫ではない。
それでも直樹には、助けを求める方法が分からなかった。
数日後。
大津市の介護施設から電話が入った。
厨房の冷蔵庫が不調で、温度が下がらないという。
食材を扱う設備の故障は急を要する。
「今日、見に来てもらえませんか」
施設の担当者は切迫した声だった。
直樹は共有車の予定表を確認した。
すべて使用中。
直樹は倉庫にいた後輩へ頼んだ。
「車、少し借りられないか」
「すみません。これから甲賀市へ納品で」
タクシーで向かえば高額になる。
電車とバスでは時間がかかる。
それでも行かないわけにはいかなかった。
直樹は必要な書類と簡単な工具を鞄へ入れ、駅へ走った。
電車の遅れ。
バスの乗り継ぎ。
施設へ到着したのは、電話から二時間以上経った後だった。
担当者は疲れた表情で言った。
「もう別の業者さんにも連絡しました」
直樹は頭を下げた。
「申し訳ありません」
厨房では、食材を別の冷蔵庫へ移す作業が続いていた。
直樹は状態を確認し、修理担当へ連絡した。
結局、その日は応急対応しかできなかった。
帰り際、施設長が直樹に言った。
「藤井さんには長くお願いしてきました」
「でも、急いでいるときに来てもらえないと困るんです」
「おっしゃるとおりです」
「次回から、ほかの会社も含めて検討します」
その言葉は、直樹の胸に重く残った。
車がない。
ただそれだけで、長く積み上げてきた信頼が崩れようとしている。
帰りのバス停で、冷たい雨が降り始めた。
屋根は小さく、風が吹くたびに雨が入り込む。
直樹は濡れた鞄を抱えながら、道路を走る車を見ていた。
「もう営業、続けられんかもしれんな」
初めて、声に出して言った。
その週末。
直樹は湖南市にある母親の家を訪れた。
父親はすでに亡くなっていた。
介護の日々が終わったあとも、母親は一人で暮らしている。
直樹は月に一度、電車とバスで顔を見に行っていた。
帰り際、母親が尋ねた。
「仕事、うまくいってる?」
「まあまあ」
「顔に書いてあるで」
「何が」
「しんどいって」
直樹は笑ってごまかそうとした。
しかし母親は続けた。
「昔から、あんたは困ってるときほど大丈夫って言うから」
その言葉に、直樹は黙った。
母親は台所へ行き、棚から一枚の紙を持ってきた。
「これ、前に近所の人からもらったんやけど」
差し出されたのは、中古車販売店のチラシだった。
カーマッチ滋賀守山店。
ローンに不安のある方も、まずは相談。
オートローン。
信用回復ローン。
自社ローン。
全国の中古車オークション。
「車、いるんやろ」
直樹はチラシを見たまま答えた。
「簡単には買えへん」
「相談したん?」
「前に別の店で駄目やった」
「別の店やろ」
「どこでも同じや」
母親は少し強い口調で言った。
「同じかどうかは、行ってみんと分からん」
「無理やったら、それで終わり」
「でも、何もせんまま仕事なくしたら、後悔するんちゃうか」
直樹は何も言えなかった。
母親はチラシをテーブルに置いた。
「車を買えって言ってるんやない」
「一回、話してきたらって言ってるだけ」
数日間、直樹はチラシを鞄に入れたままにしていた。
捨てることも、電話することもできなかった。
休憩時間にホームページを見る。
閉じる。
口コミを読む。
閉じる。
「滋賀県栗東市 中古車販売店」
「守山市 自社ローン」
「滋賀県 信用回復ローン」
「中古車 オークション 守山市」
検索するたび、同じ店が表示された。
絶対に利用できる。
誰でも大丈夫。
そんな言葉は書かれていなかった。
代わりにあったのは、
「ローンに不安のある方も、まずはご相談ください」
という言葉だった。
必ず大丈夫ではない。
しかし、相談はできる。
直樹には、その距離感がかえって信頼できた。
電話をかけたのは、営業会議で再び数字を指摘された日の夕方だった。
会社の駐車場で、ほかの社員が営業車を返却していく。
直樹は建物の陰に立ち、スマートフォンを握っていた。
何度か番号を入力しては消した。
やがて、通話ボタンを押す。
「はい、カーマッチ滋賀守山店です」
「あの……車の相談をしたいんですが」
「ありがとうございます。どのような用途のお車でしょうか」
「営業の仕事で使います」
「現在、お車がなくてお困りですか」
「はい」
スタッフの声は落ち着いていた。
直樹は仕事の状況を説明した。
栗東市の会社に勤めていること。
滋賀県内を営業で回ること。
共有車では仕事が十分にできないこと。
過去の支払いに不安があること。
以前、別の中古車販売店でローンが難しかったこと。
話しながら、直樹は何度も言葉に詰まった。
「すみません。こういう話をするのが苦手で」
「大丈夫です。分かる範囲でお話しいただければ十分です」
「今日、伺ってもいいですか」
「はい。お仕事のあとでも大丈夫です」
直樹は電話を切った。
電話をかけるまでに何日もかかった。
会話は十分ほどだった。
しかし、終わったときには少しだけ気持ちが軽くなっていた。
午後七時半。
直樹は栗東市から電車とバスを乗り継ぎ、カーマッチ滋賀守山店を訪れた。
展示場には、仕事帰りらしい男性が一人、軽バンを見ていた。
商談席には、小さな子どもを連れた夫婦が座っている。
この店には、さまざまな事情を抱えた人が来る。
そう思うと、自分だけが特別に失敗した人間ではないように感じた。
スタッフが直樹を迎える。
「遠いところありがとうございます」
「栗東市なので、そこまで遠くはないです」
「でも、公共交通機関だと時間がかかりますよね」
直樹は苦笑した。
「それで困っています」
商談席へ案内される。
スタッフはすぐに車種の話を始めなかった。
「営業のお仕事では、一日にどれくらい走りますか」
「日によります。少ない日は三十キロくらいですけど、多いと百五十キロ以上です」
「訪問先はどの地域が多いですか」
「守山市、草津市、大津市、東近江市が多いです」
「長浜市や甲賀市へ行くこともあります」
「荷物は積みますか」
「カタログや小さな部品くらいです」
「お客様を乗せることはありますか」
「ほとんどありません」
「高速道路は使いますか」
「使います」
スタッフは一つずつ条件を書き出した。
燃費が良い。
長距離を走っても疲れにくい。
大きすぎない。
駐車しやすい。
カタログや工具を積める。
高速道路でも安定して走れる。
仕事で使うため、故障リスクを抑えたい。
見た目は派手でなくていい。
月々の支払いを抑えたい。
「頭金は用意できますか」
直樹は首を横に振った。
「ほとんどありません」
「離婚後の支払いもあって、貯金に余裕がなくて」
「承知しました。頭金なしで検討できる可能性も含めて確認します」
「ただし、お客様の状況や車両、契約内容によって異なります」
「分かっています」
直樹は少し間を置いて尋ねた。
「自分みたいな状況でも、相談する意味はありますか」
スタッフはすぐに答えた。
「あります」
「ただし、“必ず契約できる”という意味ではありません」
「現在のお仕事や収入、毎月支払える金額、今後の生活を確認したうえで、考えられる方法をご提案します」
「難しい場合も、理由や次にできることをできる限りご説明します」
直樹は、その言葉を静かに受け止めた。
以前の店では、結果だけで終わった。
今回は、結果に至るまでの話を聞いてもらえる。
それだけでも違った。
現在の収入。
勤続年数。
家賃。
生活費。
養育費。
ほかの支払い。
仕事で車を使った場合に支給される車両手当。
ガソリン代。
スタッフは細かく確認した。
「車を持つことで、会社から毎月手当が出るんですね」
「はい」
「ただ、保険や税金、整備費用も自分で払います」
「そこも含めて計算しましょう」
車両手当だけを見れば、月々の支払いに充てられそうだった。
しかし任意保険。
駐車場。
燃料代。
オイル交換。
タイヤ。
車検。
長距離を走るため、一般的な使い方より消耗も早い。
それらを加えると、余裕は大きくない。
直樹は安い車を希望した。
「とにかく一番安い車でいいです」
スタッフは首を横に振った。
「直樹様は、仕事で長距離を走られます」
「価格だけで選び、故障が増えれば、営業に出られなくなる可能性があります」
「今、一番困っている状況が繰り返されてしまいます」
「でも、高い車は払えません」
「高い車をおすすめするつもりはありません」
「価格、状態、維持費のバランスを考えます」
直樹は少し驚いた。
安い車を求めれば、店も喜んで出してくると思っていた。
あるいは、逆に高い車を勧められると思っていた。
しかし、この店はどちらでもなかった。
直樹の仕事が続くことを基準に考えていた。
「オートローンをまず確認します」
スタッフが説明する。
「その結果や状況によって、信用回復ローン、自社ローンなどの可能性も検討します」
「信用回復ローンというのは、信用が戻るんですか」
「契約や商品によって内容は異なりますが、毎月の支払いをきちんと続け、これからの信用を築くことを目指す選択肢です」
「すぐに過去が消えるわけではありません」
「でも、約束を守る実績を積み重ねることには意味があります」
直樹は手元の紙を見つめた。
以前の自分は、問題が起きても家族に言えなかった。
支払いが厳しくなっても相談しなかった。
最後まで隠し、すべてを失った。
「もし、途中で支払いが難しくなったらどうなりますか」
「まず、早めに相談してください」
「状況によってできることは異なりますが、連絡をせず放置することが一番良くありません」
「困る前に相談する」
直樹はその言葉を繰り返した。
「それが苦手なんです」
「だからこそ、今ここへ来られたことが最初の一歩だと思います」
その一言に、直樹は顔を上げた。
車両選びでは、全国の中古車オークションも活用することになった。
候補はコンパクトカー。
燃費。
走行距離。
車両状態。
荷室。
高速走行の安定性。
修復歴。
部品の入手しやすさ。
スタッフは複数の車両を比較した。
一台目は価格が安かった。
しかし走行距離が多く、営業で長距離を走るには不安があった。
二台目は年式が新しく、装備も良い。
だが予算を超えていた。
三台目はハイブリッド車。
燃費は良い。
ただし車両価格が高く、バッテリーの状態も慎重に確認する必要があった。
四台目はシルバーのコンパクトカー。
年式は少し古い。
外装には細かな傷がある。
ナビも最新ではない。
しかし走行距離は比較的少なく、車両評価も安定していた。
燃費も良い。
荷室には営業資料や小さな部品を十分積める。
高速道路でも使いやすい。
価格も、直樹の支払い計画に近かった。
「見た目は普通ですね」
直樹が言う。
「営業車としては、目立ちすぎない方が使いやすいかもしれません」
「確かに」
「お客様を乗せることは少ないとおっしゃっていましたが、車内は清掃して清潔に仕上げます」
「外装の傷は?」
「小さな傷は残る可能性があります」
「問題ありません」
直樹は写真を見ながら、少しずつその車で走る自分を想像した。
栗東市の会社を出る。
守山市の飲食店へ向かう。
草津市のホテルで打ち合わせ。
大津市の病院へ見積書を届ける。
東近江市の施設で現場を確認する。
長浜市や甲賀市へも、予定を気にせず走れる。
失いかけていた仕事の感覚が、画面の中で少しだけ戻ってきた。
審査と確認は、一度で終わらなかった。
追加の書類が必要になった。
給与明細。
源泉徴収票。
会社から支給される車両手当の資料。
現在の支払い状況。
直樹は何度か店と連絡を取った。
書類を用意するたび、不安になった。
細かく確認されるほど、難しいのではないかと思った。
ある日、直樹は電話で尋ねた。
「やっぱり厳しいですか」
スタッフは答えた。
「確認が必要な点はあります」
「ただ、現在はまだ手続きを進めています」
「難しいと決まったわけではありません」
「不安なことがあれば、遠慮なく聞いてください」
以前なら、不安を抱えたまま連絡を待っていただろう。
直樹はその日、初めて自分から質問した。
「今、何が確認できていないんですか」
スタッフは状況を説明した。
その内容を聞くと、直樹が想像していたほど悪い話ではなかった。
分からないことを聞く。
困ったことを伝える。
それだけで、不安は小さくなる。
直樹は少しずつ、相談することを覚え始めていた。
連絡を待つ間も、仕事は続いた。
共有車が取れない日は、電車で移動した。
以前と同じ不便な日々だった。
しかし、直樹の行動は少し変わっていた。
取引先には、遅れる可能性を早めに伝えた。
急な訪問依頼には、事情を説明したうえで最短の時間を提案した。
上司にも、自分が車を用意するために相談を進めていることを話した。
過去の事情までは言わなかった。
それでも、「何もしていないわけではない」と伝えられた。
上司は言った。
「そういうことなら、今月は共有車を少し優先できるよう調整する」
直樹は驚いた。
これまで、自分の事情を話せば評価が下がると思っていた。
しかし、黙って成績を落とすより、状況を説明した方が協力を得られることもある。
助けを求めることは、負けではない。
そのことに、直樹はようやく気づき始めていた。
数日後。
カーマッチ滋賀守山店から電話が入った。
「藤井様、ご提案できる方法が整いました」
直樹は会社の廊下で立ち止まった。
「進められるんですか」
「はい。ただし、契約条件と月々の支払いをご確認いただき、無理がないか最終的に判断していただきます」
「ありがとうございます」
「車両についても、オークションで進められる状況です」
直樹は窓の外を見た。
駐車場から営業車が一台、出ていくところだった。
これまでは、その光景を見るたび焦っていた。
自分だけが取り残されているように感じていた。
その日は違った。
自分にも、もう一度走り出せる道が見えていた。
契約内容の説明を受けるため、直樹は再び店を訪れた。
車両価格。
登録費用。
整備費用。
月々の支払い。
支払い期間。
任意保険。
保証。
メンテナンス。
長距離走行を想定した点検時期。
すべて確認した。
スタッフは、車両手当をすべて支払いに充てる計画にはしなかった。
「仕事で走る距離が多いので、オイル交換やタイヤなどの費用を残しておく必要があります」
「月々の支払いだけ見れば、もう少し高い車も検討できます」
「ただ、維持費まで考えると今回の車が現実的です」
直樹は見積書を何度も見た。
無理ではない。
しかし余裕が大きいわけでもない。
きちんと働き、支払いを続け、整備費用も用意する必要がある。
「これなら、生活を崩さず続けられると思います」
「では、無理をせず、少しでも困ったことがあれば早めにご相談ください」
直樹は契約書へ署名した。
名前を書き終えると、ペンを置いた。
不思議と手は震えていなかった。
以前の契約では、支払いが苦しくなっても言えなかった。
今回は、最初から状況を伝えた。
分からないことも聞いた。
無理のない条件を一緒に考えた。
同じ車の契約でも、気持ちはまったく違っていた。
納車までの間、シルバーのコンパクトカーは整備された。
エンジン。
ブレーキ。
タイヤ。
バッテリー。
エアコン。
ライト。
ワイパー。
ナビ。
長距離を走ることを考え、消耗品も確認された。
車内は清掃され、営業資料を置きやすいよう荷室も整えられた。
スタッフは納車前、助手席と後部座席まで確認した。
直樹はお客様をほとんど乗せないと言っていた。
それでも、営業車は仕事相手の目に入る。
高級である必要はない。
新しくなくてもいい。
ただ、清潔で、きちんと整えられていること。
それも営業の信用の一部になる。
納車の日。
空はよく晴れていた。
直樹は午前中に休みを取り、カーマッチ滋賀守山店を訪れた。
展示場には、写真で見たシルバーのコンパクトカーが停まっていた。
小さな傷はある。
最新の車でもない。
それでも、きれいに磨かれた車体は朝日を反射していた。
「お待たせしました」
鍵を受け取る。
運転席へ座る。
シートを合わせる。
ミラーを確認する。
エンジンをかける。
車内に安定した音が広がった。
直樹はハンドルを握り、深く息を吸った。
この半年、何度も電車やバスで通った道。
急いでも間に合わなかった日。
雨に濡れた日。
取引先を待たせた日。
営業を辞めようかと思った夜。
それらが、ひとつずつ頭に浮かんだ。
「最初はどちらへ向かわれますか」
スタッフが尋ねた。
直樹は答えた。
「大津市です」
「以前、すぐに行けなかった介護施設へ行きます」
車は守山市から大津市へ向かって走った。
直樹は約束の時間より早く、介護施設へ到着した。
駐車場へ車を止める。
営業鞄を持ち、玄関へ向かう。
以前、別の会社も検討すると言った施設長が、少し驚いた顔をした。
「藤井さん、今日は早いですね」
「車を用意しました」
「そうですか」
「以前はご迷惑をおかけしました」
直樹は深く頭を下げた。
「言い訳はしません」
「ただ、今後は急なご相談にも、できる限り対応します」
施設長はしばらく直樹を見ていた。
やがて厨房へ案内した。
「実は、来年度に設備の入れ替えを考えています」
「一度、全体を見てもらえますか」
直樹は顔を上げた。
「もちろんです」
失ったと思っていた信頼が、すぐに全部戻ったわけではない。
一台の車を持っただけで、過去の遅れが消えるわけでもない。
しかし、約束の時間に到着し、顔を見て謝り、これからの行動を示すことはできる。
信用は、そうやって少しずつ積み重ねていくものだった。
車を持ってから、直樹の一日は変わった。
朝、栗東市の会社を出る。
守山市の店舗で現場確認。
草津市のホテルへ見積書を届ける。
午後から大津市の病院で打ち合わせ。
帰りに湖南市の実家へ寄り、母親の買い物を手伝う。
別の日には東近江市。
翌日は甲賀市。
必要があれば長浜市まで走る。
移動時間が減った。
訪問件数が増えた。
しかし、変わったのは数字だけではなかった。
「今から行けます」
そう答えられるようになった。
「一度、現場を見ましょう」
自分から提案できるようになった。
断られることを恐れず、取引先へ顔を出す回数が増えた。
以前の直樹の営業が、少しずつ戻ってきた。
三か月後。
営業会議の成績表で、直樹は部署内三位まで戻っていた。
大口の設備更新。
複数店舗の定期点検契約。
以前取引が減っていた介護施設からの紹介。
一つひとつは、車を持っただけで生まれた仕事ではない。
直樹が再び訪問し、話を聞き、約束を守ったことでつながった仕事だった。
会議後、上司が声をかけた。
「藤井、最近戻ってきたな」
「車を用意できたので」
「それだけじゃないだろ」
直樹は少し考えた。
「前より、早めに相談するようになりました」
「取引先にも、社内にも」
上司はうなずいた。
「それが営業だ」
直樹は笑った。
車を手に入れたことで、営業件数が増えた。
だが本当に戻ってきたのは、走る距離ではない。
人に頼ること。
状況を説明すること。
約束を守ること。
相手と向き合うこと。
それらが営業の基本だった。
そして、人生の基本でもあった。
半年後。
直樹は点検のため、カーマッチ滋賀守山店を訪れた。
走行距離は、すでにかなり増えていた。
スタッフが驚く。
「よく走られていますね」
「営業で滋賀県中を回っていますから」
「お仕事は順調ですか」
「はい」
直樹は少し照れながら続けた。
「先月、部署で一位になりました」
「おめでとうございます」
「でも、車のおかげだけじゃないです」
「もちろんです」
「車は、藤井様が動くための手段です」
「実際にお客様のところへ行き、信頼をつくられたのは藤井様です」
直樹はうなずいた。
以前の自分なら、成績が上がった理由をすべて車に求めたかもしれない。
今は違う。
車は自分を目的地まで運んでくれる。
しかし、その先で何を話し、どう行動するかは自分次第だった。
点検を待つ間、直樹は店内の壁に掲示された一枚の名刺を見つけた。
山本内装サービス。
長浜市の職人の名刺だった。
裏には短い説明が添えられている。
「仕事用の車をきっかけに、現場を断らずに済み、新しい依頼へつながりました」
直樹は、その名刺をしばらく見ていた。
自分と同じように、車がなければ仕事を失いかけた人がいる。
商談席では、若い女性と高校生くらいの少女が車の資料を見ていた。
展示場では、赤ちゃんを抱いた夫婦がコンパクトミニバンの点検を待っていた。
それぞれ、事情は違う。
必要な車も違う。
しかし、この店から送り出された車には共通するものがあった。
人の暮らしを、次の場所へつなぐこと。
帰り際、直樹は受付で一枚の名刺を差し出した。
自分の営業用の名刺だった。
「これ、置いてもらえませんか」
スタッフが尋ねる。
「お仕事のご案内ですか」
「それもあります」
「でも、厨房機器で困っているお客様がいたら、相談だけでも聞きます」
「自分も、相談することで助けてもらったので」
スタッフは名刺を受け取った。
「ありがとうございます」
直樹は笑った。
「相談だけなら、無料です」
「どこかで聞いたような言葉ですね」
「この店で覚えました」
カーマッチ滋賀守山店の引き出しには、少しずつ名刺が増えていた。
長浜市の内装職人。
栗東市の厨房機器営業。
これから、別の誰かの役に立つかもしれない。
車を売ったお客様が、今度は自分の仕事で誰かを支える。
その誰かが、また別の人を助ける。
一台の車から始まったつながりは、道路のように枝分かれしながら、滋賀県内へ広がっていく。
守山市。
栗東市。
草津市。
大津市。
長浜市。
東近江市。
甲賀市。
湖南市。
車は、それぞれの街を走る。
その車には、仕事が乗っている。
家族が乗っている。
夢が乗っている。
約束が乗っている。
そして、人には見せたくなかった過去を抱えながらも、もう一度やり直そうとする気持ちが乗っている。
滋賀県守山市にあるカーマッチ滋賀守山店には、今日もローンに不安を抱えた人が相談に訪れる。
中古車販売店を探している人。
全国の中古車オークションから希望の一台を探したい人。
自社ローンについて知りたい人。
信用回復ローンを通して、これからの信用を築きたい人。
頭金をすぐに用意することが難しい人。
仕事のために車が必要な人。
家族のために車を探している人。
過去の事情から、もう車は持てないと思っている人。
カーマッチ滋賀守山店は、簡単に「必ず大丈夫」とは言わない。
「誰でも利用できる」とも言わない。
一人ひとりの状況を確認し、無理なく続けられる方法を一緒に考える。
難しい場合もある。
希望どおりの車が見つからないこともある。
予算を見直さなければならないこともある。
必要な書類が増えることもある。
それでも、相談することで初めて見える道がある。
直樹が見つけたのは、車を持つ方法だけではなかった。
困ったときに話すこと。
分からないことを聞くこと。
失敗を隠さず、これからの行動で信用を積み重ねること。
その方法を、車選びを通して知った。
夕方。
シルバーのコンパクトカーが、カーマッチ滋賀守山店を出発した。
次の目的地は栗東市の会社ではない。
草津市にある、開業予定の小さな飲食店だった。
厨房の設備予算が限られている。
直樹は、新品だけでなく中古機器や必要最低限の設備も含めて提案するつもりだった。
高い商品を売ることが、必ずしも相手のためになるとは限らない。
無理なく店を続けられること。
その人が本当に必要としているものを考えること。
カーマッチ滋賀守山店で車を選んだときに、自分がしてもらったことと同じだった。
信号が青に変わる。
直樹はゆっくりアクセルを踏んだ。
車は道路を走り始める。
その車が運んでいるのは、一人の営業マンだけではない。
商品カタログ。
見積書。
取引先との約束。
仕事への自信。
母親からもらった一枚のチラシ。
相談する勇気。
そして、失敗しても、もう一度人と向き合おうとする決意。
車を失ったことで、直樹は走れなくなったと思っていた。
だが本当に止まっていたのは、車ではない。
人へ助けを求める心だった。
カーマッチ滋賀守山店は、その心を無理に動かしたわけではない。
ただ、話を聞き、選択肢を示し、もう一度走り出せる場所まで一緒に歩いた。
その先でアクセルを踏んだのは、直樹自身だった。
人を運ぶ店から送り出された一台は、営業マンを取引先へ運びながら、彼の信頼と自信を、もう一度未来へ運んでいた。
人を運ぶ店
滋賀県守山市に、春が来た。
琵琶湖から吹く風はまだ少し冷たかったが、道路沿いの桜はゆっくりと花を開き始めていた。
朝の国道8号線には、いつものように多くの車が流れている。
栗東市へ向かう営業車。
草津市から走ってくる家族のミニバン。
大津市へ通勤するコンパクトカー。
長浜市から資材を積んで南へ向かう軽バン。
東近江市、甲賀市、湖南市へ仕事に向かう車。
一台一台の目的地は違う。
乗っている人の事情も違う。
それでも、すべての車には共通していることがあった。
誰かを、今いる場所から次の場所へ運んでいる。
仕事へ。
学校へ。
病院へ。
家族のもとへ。
夢へ。
未来へ。
守山市の一角にあるカーマッチ滋賀守山店も、いつものように朝を迎えていた。
展示場の照明が消され、太陽の光の下で中古車が並ぶ。
軽自動車。
コンパクトカー。
ミニバン。
SUV。
商用車。
スタッフが一台ずつ車を確認する。
タイヤ。
窓ガラス。
ボディ。
車内。
店の扉が開く前から、今日も誰かの相談が始まる準備は整っていた。
ただ、その日は少しだけ、いつもと違っていた。
守山市では、地域の事業者や住民が集まる小さな交流イベントが開かれることになっていた。
会場は市内の広場。
飲食店。
工務店。
福祉事業所。
子育て支援団体。
地域の商店。
中古品販売。
車に関する相談ブース。
さまざまな事業者が参加し、仕事や暮らしを地域の中でつなぐ催しだった。
カーマッチ滋賀守山店も参加することになっていた。
目的は、車を展示して販売することだけではない。
車選び。
維持費。
中古車オークション。
オートローン。
信用回復ローン。
自社ローン。
頭金を準備することが難しい場合の相談。
ローンに不安がある人が、どこから考え始めればよいのか。
そうした疑問を、気軽に相談できる場所をつくるためだった。
会場には一台の中古車と、小さな机、数脚の椅子が用意された。
派手な飾りはない。
大きな宣伝文句もない。
掲げられた言葉は、たった一つだった。
「車が必要な理由から、お聞かせください。」
イベントが始まる前。
一台の淡いブルーのコンパクトミニバンが、会場の駐車場へ入ってきた。
運転していたのは西村健太。
助手席には妻の結衣。
後部座席には、チャイルドシートに座る娘がいた。
娘はもう一歳を過ぎ、車の窓から見える景色を指さしては声を上げていた。
「今日は人多いな」
健太が言う。
「イベントやからね」
結衣は後部座席を振り返った。
「眠くならへんかな」
「帰りに寝るやろ」
「この子、最近車に乗るとすぐ寝るから」
三人が乗る淡いブルーのミニバンは、納車された日より少しだけ生活の跡が増えていた。
後部座席にはおもちゃ。
荷室にはベビーカー。
助手席の足元には、子ども用の飲み物と着替え。
きれいに使っているつもりでも、家族の車らしい物が少しずつ増えていく。
それは汚れではなかった。
暮らしの記録だった。
初めて病院から家へ帰った日。
甲賀市の実家へ娘を連れて行った日。
長浜市の祖父母に顔を見せた日。
守山市の公園で初めて歩いた日。
草津市の買い物帰りに、家族三人で夕焼けを見た日。
車内には、西村家にしか分からない時間が積み重なっていた。
少し遅れて、一台のシルバーの軽バンが駐車場へ入ってきた。
運転していたのは、長浜市の職人、山本隆司だった。
荷室には工具ではなく、折り畳み式の展示台と木製の小物が積まれていた。
イベントで、簡単な住宅修繕相談と、子ども向けの木工体験を行う予定だった。
軽バンから降りた隆司は、会場を見渡した。
以前なら、地域イベントへ参加する余裕はなかった。
仕事を失わないために、目の前の現場をこなすことで精いっぱいだった。
しかし今は、仕事の依頼が安定し、少しずつ自分から人とつながる時間を持てるようになっていた。
取引先からの紹介が増えた。
長浜市だけでなく、東近江市や守山市、湖南市からも修繕の相談が入る。
月々の支払いも続けている。
大きな余裕があるわけではない。
それでも、以前のように明日が見えない生活ではなくなった。
隆司は軽バンのサンバイザーに挟んである、折れた一枚の名刺を見た。
カーマッチ滋賀守山店。
端はすっかり擦れていた。
それでも捨てる気にはなれなかった。
一枚の名刺がなければ、今ここには来られていなかったかもしれない。
会場の反対側には、シルバーのコンパクトカーが止まった。
栗東市で営業をしている藤井直樹だった。
この日は、仕事ではない。
会社としてイベントへ参加し、小規模な飲食店や福祉施設向けに、厨房機器の相談を受けることになっていた。
車の荷室には商品カタログ。
省エネ設備の資料。
中古厨房機器の案内。
簡単な点検道具。
以前の直樹なら、新品の高額商品を売ることだけが営業だと思っていた時期もあった。
今は違う。
必要のないものは勧めない。
予算に合わなければ、規模を見直す。
新品だけでなく中古品も提案する。
店舗が無理なく営業を続けられることを優先する。
その考え方は、カーマッチ滋賀守山店で自分の車を選んだときに学んだものだった。
高い車ではなく、仕事を続けられる車。
見栄ではなく、現実に合う支払い。
売ることより、使い続けられること。
商品は違っても、人に向き合う姿勢は同じだった。
午前十時。
イベントが始まった。
家族連れ。
高齢者。
学生。
地域の事業者。
多くの人が会場を行き交う。
カーマッチ滋賀守山店の相談ブースにも、少しずつ人が集まった。
「子どもが免許を取るので、安い中古車を探しています」
「仕事用の車が古くなって、買い替えを考えています」
「車は必要ですが、頭金をすぐに用意できません」
「以前ローンの審査が難しかったので、不安です」
「自社ローンと普通のローンは、何が違うんですか」
「信用回復ローンについて教えてください」
「中古車オークションから探す場合、実際の車を見られないのが心配です」
スタッフは一人ひとりの話を聞いた。
その場で「大丈夫です」と約束することはない。
「絶対に利用できます」とも言わない。
まず現在の状況を聞く。
何のために車が必要なのかを知る。
毎月どれくらいなら無理なく支払えるのかを考える。
車両価格だけでなく、保険、税金、整備、車検、燃料代まで含めて説明する。
難しい可能性がある場合も、曖昧な言葉で期待させない。
それでも、相談に来た人を過去だけで決めつけることはしない。
現在の仕事。
収入。
生活。
これからの計画。
その人が今どこに立ち、どこへ向かいたいのかを見る。
カーマッチ滋賀守山店が行っていることは、イベント会場でも店舗でも変わらなかった。
昼前。
一人の女性と高校生くらいの少女が、相談ブースの前で足を止めた。
大津市に住む高木沙織と、その娘だった。
第1章でカーマッチ滋賀守山店を訪れた二人である。
あの日から、二人は何度も話し合った。
車が必要な理由。
娘が東近江市で学びたいこと。
沙織が栗東市の物流会社へ転職したいこと。
生活費。
毎月の支払い。
頭金。
過去の支払いへの不安。
最初は、車を買うか買わないかで意見がぶつかっていた。
しかし店で相談したことで、二人は「車を買うこと」ではなく、「どんな生活をつくりたいか」を話すようになった。
結果として、すぐには契約をしなかった。
沙織は先に転職先との条件を確認した。
勤務開始日。
収入。
試用期間。
通勤手当。
娘は学校のコースについて、通学回数や費用を詳しく調べた。
二人で家計を整理し、無理なく払える金額を決めた。
その後、改めてカーマッチ滋賀守山店へ相談し、全国の中古車オークションから候補を探した。
希望していた白い車ではなかった。
少し年式の古い、落ち着いた色のコンパクトカーだった。
外装に小さな傷はあった。
装備も必要最低限。
しかし燃費が良く、維持費も抑えられ、娘の送迎と沙織の通勤に十分使える車だった。
二人はその車を選んだ。
そして今、その車で大津市から守山市のイベントへ来ていた。
娘は以前より明るい表情をしていた。
「ここ、覚えてる?」
沙織がブースを見ながら尋ねる。
「店じゃないけど、同じ看板やん」
「最初に相談したとき、あんたずっと外見てたよね」
「お母さんとケンカしたくなかったし」
「ごめんって」
「もういいって」
娘はそう言いながら笑った。
二人の会話には、以前のような張りつめた空気がなかった。
車が家族の問題をすべて解決したわけではない。
過去が消えたわけでもない。
それでも、二人で話し合い、無理のない方法を選び、一緒に支払いと生活を続けている。
その経験が、家族の関係を少しずつ変えていた。
カーマッチ滋賀守山店のブースの近くで、木工体験の準備をしていた隆司が、一枚のテーブルを運んでいた。
そのとき、固定していた脚が外れ、テーブルが傾いた。
近くにいた直樹がすぐに支えた。
「大丈夫ですか」
「すみません、助かりました」
二人はテーブルを地面へ下ろした。
隆司が工具を取り出す。
「金具が緩んでるな」
「直せますか」
「これくらいならすぐです」
直樹は隆司の名札を見た。
山本内装サービス。
どこかで見た名前だった。
「もしかして、カーマッチ滋賀守山店に名刺を置いている方ですか」
隆司が顔を上げた。
「はい。どうして知ってるんですか」
「点検に行ったとき、店内で見ました」
「藤井さんも、あの店で車を?」
「そうです」
直樹は駐車場に止めたシルバーのコンパクトカーを指した。
「仕事用です」
隆司も自分の軽バンを指す。
「自分もです」
二人は顔を見合わせ、自然に笑った。
まったく違う仕事。
住んでいる場所も違う。
隆司は長浜市。
直樹は栗東市。
一人は職人。
一人は営業マン。
それでも二人には、同じ店から仕事を支える車を送り出してもらったという共通点があった。
「車がないと、仕事終わってました」
隆司が言う。
「自分も営業を辞めるところでした」
「今はどうですか」
「何とか戻りました。先月は部署で一位でした」
「すごいですね」
「山本さんは?」
「現場、増えました。増えすぎて断ることもあります」
「それもすごいですよ」
二人の会話は、初対面とは思えないほど自然に続いた。
困っていた頃のこと。
相談するまで迷ったこと。
安い車だけを選ぼうとしたこと。
無理のない支払いを考えてもらったこと。
納車の日のこと。
二人が話していると、健太がベビーカーを押しながら近づいてきた。
木工体験に興味を持った結衣と娘も一緒だった。
「これ、子どもでもできますか」
健太が尋ねる。
「はい。簡単な木の車を作れますよ」
隆司が答える。
「この子はまだ早いですけど」
結衣が笑う。
「お父さんが作ってあげたらどうですか」
「自分、こういうの苦手です」
「大丈夫です。教えますよ」
隆司が材料を用意する。
健太は小さな木の車を作り始めた。
慣れない手つきで紙やすりをかける。
車輪を付ける。
娘はベビーカーから、健太の手元をじっと見ていた。
直樹はその姿を見ながら尋ねた。
「お子さん、何歳ですか」
「一歳です」
「車は家族用ですか」
「はい。あの淡いブルーの車です」
「もしかして、あの店で?」
「そうです」
三人目だった。
仕事用の軽バン。
営業用のコンパクトカー。
家族用のコンパクトミニバン。
使い方も、選んだ理由も、支払い方法も違う。
しかし、すべてカーマッチ滋賀守山店から始まった車だった。
やがて、高木沙織と娘も木工体験の場所へやって来た。
娘が木製の小物を見て、足を止めた。
「これ、かわいい」
「作ってみる?」
隆司が声をかける。
娘は少し迷ったあと、うなずいた。
沙織は娘の隣に座った。
西村家の娘はベビーカーからその様子を見ている。
健太は作りかけの木の車と格闘している。
結衣は笑いながら写真を撮っている。
直樹は、自分の仕事の相談ブースへ戻る前に、隆司と名刺を交換した。
「店舗の改修案件があれば相談してもいいですか」
「もちろんです」
「厨房周りで内装工事が必要になることがあるので」
「自分のお客様で飲食店を始める人がいたら、藤井さんを紹介します」
車をきっかけに仕事がつながった。
仕事を通じて、新しい人がつながった。
その輪の中心に、カーマッチ滋賀守山店が立っていたわけではない。
店はただ、それぞれに必要な一台を送り出しただけだった。
しかし送り出された人たちは、車で移動し、誰かと出会い、仕事をし、家族との時間をつくり、次の人を助けていた。
一本の道が、次の道へつながっていく。
まるで滋賀県を走る道路のように。
午後。
イベント会場で、小さなトラブルが起きた。
飲食ブースの一つで使用していた業務用冷蔵庫の温度が下がらなくなった。
食材を扱うため、そのままにはできない。
出店者が困っていると、直樹がすぐに駆けつけた。
「一度、状態を確認します」
電源。
設定温度。
吸気口。
周辺の温度。
機械の音。
直樹は一つずつ確認した。
大きな故障ではなく、設置場所と吸気の問題が原因だった。
周囲の物を移動させ、風通しを確保する。
それでも温度が安定するまで、予備の保冷場所が必要だった。
「車で保冷箱を運べます」
健太が言った。
「うちのミニバンなら荷室が空いています」
近くの事業者から予備の保冷箱を借り、健太の車で運ぶことになった。
隆司は飲食ブースの簡単な棚が傾いていることに気づき、工具で補強した。
沙織と娘は、移動する商品の整理を手伝った。
誰かに指示されたわけではない。
それぞれが、自分にできることをした。
一時間ほどで、飲食ブースは営業を再開できた。
出店者は何度も頭を下げた。
「本当に助かりました」
直樹が答える。
「困ったときは、お互いさまです」
隆司が続ける。
「自分たちも、困ったときに助けてもらいましたから」
その言葉を聞き、カーマッチ滋賀守山店のスタッフは静かに笑った。
イベント終了後。
空は夕暮れの色に変わっていた。
出店者たちがテントを片づける。
机を運ぶ。
看板を外す。
ゴミを集める。
西村家は娘が眠くなったため、少し早く帰る準備をしていた。
健太はベビーカーを畳み、ミニバンの荷室へ積む。
結衣は娘をチャイルドシートへ座らせる。
「今日、楽しかったね」
結衣が言う。
娘は眠そうな目で笑った。
隆司は木工体験の道具を軽バンへ積んでいた。
直樹がテーブルを運ぶのを手伝う。
沙織と娘も、余った材料をまとめていた。
片づけが終わると、自然に数人がカーマッチ滋賀守山店のブース前へ集まった。
そこには朝から掲げられていた言葉が残っていた。
「車が必要な理由から、お聞かせください。」
隆司が看板を見ながら言った。
「最初に店へ行ったとき、車種より先に仕事の話を聞かれました」
直樹もうなずく。
「自分もです。営業でどう使うのか、どれくらい走るのかって」
結衣が笑う。
「私たちは、赤ちゃんが生まれた後の生活を聞かれました」
沙織は娘を見た。
「私たちは、車を買うかどうかより、家族でどう暮らしたいかを聞かれました」
スタッフは答えた。
「同じ車でも、必要とする理由は人によって違いますから」
隆司が尋ねる。
「この店は、車を売る店じゃないんですか」
冗談のような口調だった。
スタッフも笑った。
「もちろん、中古車販売店です」
「車を販売しなければ、お店は続きません」
「でも、車だけを見ていたら、お客様に合う一台は選べないと思っています」
「大切なのは、その車に何を乗せるのかです」
「仕事なのか」
「家族なのか」
「夢なのか」
「もう一度やり直したいという気持ちなのか」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
駐車場には、四台の車が並んでいた。
沙織と娘のコンパクトカー。
隆司の軽バン。
西村家のコンパクトミニバン。
直樹の営業用コンパクトカー。
どれも高級車ではない。
新車でもない。
小さな傷もある。
年式も新しくない。
街中で見かけても、特別な車だとは思われないだろう。
しかし、その四台には、それぞれの人生が乗っていた。
沙織の車には、母と娘の会話が乗っている。
大津市から栗東市への通勤。
東近江市への送迎。
過去のお金の問題から逃げず、二人で生活を考え直した時間。
娘が学びたいことを諦めずに済んだ未来。
隆司の軽バンには、職人の仕事が乗っている。
長浜市から滋賀県各地へ運ばれる工具。
取引先との約束。
一度失った信用を、毎月の支払いと丁寧な仕事で積み直す日々。
一枚の古い名刺と、新しくつながった仕事。
西村家のミニバンには、小さな命が乗っている。
病院から初めて家へ帰った日。
草津市での買い物。
甲賀市と長浜市への帰省。
泣き声。
笑い声。
ベビーカー。
おむつ。
家族三人で増やしていく思い出。
直樹のコンパクトカーには、営業マンの約束が乗っている。
栗東市から守山市、草津市、大津市、東近江市、湖南市、甲賀市、長浜市へ走る日々。
取引先の声を聞く時間。
以前失いかけた信頼。
困ったときに相談する勇気。
もう一度、人と向き合う自信。
車が運んでいるものは、人の体だけではなかった。
夕日が駐車場を照らした。
車のボディが、柔らかなオレンジ色に染まる。
カーマッチ滋賀守山店のスタッフは、並んだ車を見ながら言った。
「車は、人を目的地まで運びます」
「でも、お店が本当に運びたいのは、車そのものではありません」
「車が必要なのに、どうすればいいか分からず立ち止まっている人」
「ローンに不安があり、相談することさえためらっている人」
「頭金を用意できず、生活のための車を諦めかけている人」
「仕事を失いそうな人」
「家族の時間を増やしたい人」
「過去の失敗から、もう一度信用を築きたい人」
「そういう人が、今いる場所から次の場所へ進むためのお手伝いをしたいと思っています」
隆司が静かに言った。
「だから、人を運ぶ店なんですね」
スタッフは少し考えたあと、うなずいた。
「そうかもしれません」
その答えは、店が自分で名乗ったものではなかった。
車を送り出された人が、店の役割に付けた名前だった。
日が沈み始める。
それぞれが車へ乗り込む。
沙織は運転席。
娘は助手席。
以前は車の話をするだけで過去の記憶がよみがえり、言い争いになった。
今では二人で翌週の予定を話している。
「来週、東近江まで送ってくれる?」
「仕事の時間確認してからね」
「帰りは友達と電車でもいいよ」
「無理しなくていい」
「お母さんこそ無理せんといて」
二人の車は、大津市へ向かって走り出した。
隆司は軽バンの荷室を閉めた。
助手席には、直樹から受け取った名刺が置かれている。
来月、草津市で飲食店の内装相談があるという。
もしかすると、直樹と一緒に仕事をすることになるかもしれない。
一枚の名刺から始まった道が、また新しい名刺へつながった。
「今日も頼むぞ」
隆司はハンドルに手を置いた。
エンジンをかけ、長浜市へ向かった。
健太はチャイルドシートを確認してから運転席へ座った。
後部座席では娘が眠っている。
結衣も少し疲れた表情だった。
「帰り、何か買っていく?」
健太が尋ねる。
「今日はもう家にあるものでいい」
「運転代わろうか」
「大丈夫」
「眠くなったら言って」
「それ、私がいつも言う言葉やん」
二人は笑った。
淡いブルーのミニバンは、草津市へ向かって出発した。
車内には、穏やかな家族の時間が流れていた。
直樹は最後に会場を出た。
助手席には余ったカタログ。
後部座席には、隆司が作った小さな木製の車が置かれていた。
娘に会う機会があれば渡したいと思い、一つ購入したものだった。
離婚後、子どもと会える回数は多くない。
それでも以前より、連絡を取れるようになっていた。
過去の問題をすぐに解決することはできない。
父親として失った時間も戻らない。
しかし、これから約束を守ることはできる。
会う日を決める。
時間どおりに迎えに行く。
話を聞く。
無理に距離を縮めようとせず、少しずつ信頼を取り戻す。
仕事と同じだった。
信用は、言葉ではなく行動の積み重ねでしか戻らない。
直樹はエンジンをかけた。
次に走る道は、取引先ではなく、子どもに会うための道だった。
会場が静かになったあと、カーマッチ滋賀守山店のスタッフは、最後の机を片づけた。
相談記録には、この日も多くの内容が残っていた。
守山市で初めて車を探している若者。
栗東市で仕事用車両を必要としている会社員。
草津市で家族が増え、ミニバンを検討している夫婦。
大津市で介護のために車が必要な女性。
長浜市で商用車の買い替えを考えている職人。
東近江市へ通勤するための車を探している人。
甲賀市の実家へ通うため、中古車を検討している家族。
湖南市で転職し、ローンに不安を抱えている人。
事情は一人ひとり違う。
そのすべてに同じ答えを出すことはできない。
オートローンを利用できる人。
信用回復ローンが選択肢になる人。
自社ローンについて相談する人。
頭金なしで検討できる場合もあれば、条件を見直す必要がある場合もある。
全国の中古車オークションから希望に合う一台を探せる人もいれば、展示車の方が生活に合う人もいる。
希望した車より、現実的な車を選ぶ方が良い場合もある。
すぐには車を買わず、生活や仕事が安定してから再検討する方が良い場合もある。
大切なのは、契約することだけではない。
納車後も生活が続くこと。
支払いが続けられること。
整備をしながら安全に乗れること。
仕事や家族のために、その車を長く使えること。
カーマッチ滋賀守山店は、「必ず大丈夫」とは言わない。
しかし、「一人で悩まなくてもいい」とは伝える。
相談したからといって、すぐに車が手に入るわけではない。
それでも、話すことで整理できることがある。
確認することで見つかる道がある。
過去ではなく、現在とこれからを考えることで始まる一歩がある。
夜。
店舗へ戻ると、展示場の車が静かに並んでいた。
今日相談を受けた人が、いつかこの中の一台を選ぶかもしれない。
全国の中古車オークションから別の一台を探すかもしれない。
予算を見直し、数か月後にもう一度来るかもしれない。
あるいは、今は車を買わないという結論になるかもしれない。
それでもいい。
人が納得して次へ進めるなら、その相談には意味がある。
スタッフは事務所の照明を落とした。
最後に、店の外から看板を見る。
カーマッチ滋賀守山店。
看板に書かれているのは、車に関する店の名前だけだった。
「人を運ぶ店」とは書かれていない。
それでも、今日この店からつながった人たちは、その意味を知っていた。
車は道路を走る。
守山市から栗東市へ。
草津市から大津市へ。
長浜市から東近江市へ。
甲賀市から湖南市へ。
そして、滋賀県の外へも走っていく。
一台の車が運べる人数には限りがある。
積める荷物にも限りがある。
走れる距離にも限りがある。
けれど、その車が生み出すものには、限りがない。
一つの仕事が、次の仕事へつながる。
一度の送迎が、子どもの夢につながる。
一回の帰省が、家族の思い出になる。
一度守った約束が、失われた信用を少しずつ取り戻す。
相談して手に入れた勇気が、今度は誰かを助ける力になる。
車は、人を運ぶ。
そして人は、想いを運ぶ。
優しさ。
責任。
約束。
希望。
再出発。
それらは道路を走り、街から街へ、人から人へと渡っていく。
カーマッチ滋賀守山店が送り出した車は、ただ目的地へ向かうために走っているのではない。
一人ひとりの人生を、昨日とは違う場所へ運ぶために走っている。
だから、この店が販売しているものは、一台の中古車だけではない。
その車で働ける明日。
その車で家族と出かけられる休日。
その車で守れる約束。
その車で積み重ねられる、新しい信用。
その車で向かうことのできる、まだ見たことのない未来。
滋賀県守山市にあるカーマッチ滋賀守山店。
ここは、中古車販売店である。
全国の中古車オークションから、希望に合う一台を探す店である。
オートローン、信用回復ローン、自社ローンなど、お客様の状況に応じた方法を一緒に考える店である。
ローンに不安のある人も、頭金の準備が難しい人も、まずは相談できる場所である。
そして何より――
立ち止まった人の話を聞き、
必要な一台に想いを乗せ、
もう一度、未来へ向かう道へ送り出す場所である。
車を売る店は、たくさんある。
けれどこの店が目指しているのは、車だけを送り出す店ではない。
仕事を運び、家族を運び、夢を運び、信用を運び、人生を次の場所へ運ぶ店。
その名は――

